「乱」と「変」の境目

応仁の乱の舞台(京都)

日本の歴史の語用における「乱」と「変」の境目はどのあたりにあるのか探索する!

おはようございます。

2015年2月の配信記事です。

歴史的出来事を表現するのに、日本史では◯◯の乱や△△の変といった言い方をします。

そして、◯◯のところには和暦の年号、△△のところにはその事件が起こった場所や地名が充てられることが多いように感じます。

となると、「の乱」のほうが地理的には広い概念であるので場所で特定することはできず、やむなく年号を使用して時間的一致表記を優先したと思われますし、「の変」は「の乱」より概ね小規模で、その事件が起こった地理的場所を特定しやすいというなのかもしれません。

以前、「の変」は成功したクーデター、「の乱」は失敗した反乱といった定義が示されたことがありましたが、そう言い切るにはあまりにも例外が多く、あまり有用な振り分けとは言えないと思います。


具体的な用法を幾つか取り上げてみます

すなわち、禁門の変(蛤御門の変)は仕掛けた長州側の完敗で失敗ですし(吉田松陰第一の弟子である久坂玄瑞以下長州の主だった志士が戦死)、古代史最大規模の内乱であった壬申の乱は、乱を起こした大海人皇子軍が天智天皇直系の大友皇子を滅ぼし、天武天皇となるという、日本史上まれに見る大規模クーデターの成功例です。

将軍家や守護の家督争いが複雑に入り組み、古今東西の実力者が幾年にもわたって京都に対峙した応仁の乱や初めての武士階級の本格自治闘争であった平将門の乱は、「乱」の正式活用がそのまま歴史用語になったものと思われます。

ほかに、「役」とか「陣」とか、近代になれば「事変」「戦争」などという新語も登場してきますが、この漢字だけで特定の意味を為すわけではなく、一連の歴史的言葉として定着してきたことに敬意を表するという結論で筆を置きたいと思います。

慶応義塾大学の慶應とは東京のどこかの場所、応仁の乱の応仁とは京都のどこかの場所だと思っておりました無学なる筆者からは以上です。

*慶應も応仁も、和暦の元号です。

(平成27年2月25日 水曜日 最終更新:平成28年2月25日)

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