博多を福岡が守るという発想で博多商人の街づくりを進めた黒田官兵衛

博多祇園山笠 飾り山

おはようございます。

2014年7月の山笠に関する配信記事です。

福岡は城下町で博多は商人の町であると言われます。

確かに博多の名称は昔からあり、その出自がさかのぼれないくらい古いものですが、福岡は黒田藩の藩祖官兵衛がその出身地であった姫路の福岡を充てたことから始まりました。

しかし、官兵衛とその子長政が博多の地に入った時は、博多の町は焼けてしまい商人たちも町を捨てて逃げ出そうとしていたといいます。

博多の町は大内氏の没後、大友氏と毛利氏、大友氏と島津氏による相次ぐ戦国時代の合戦で荒廃を極めていたのです。

官兵衛は太閤秀吉の命を受け、石田三成らと協力して博多の町を自らの武士団の手によって再興しました。

そうして町に商人も戻ってきてかつての賑わいを取り戻したと伝えられています。

博多祇園山笠もこうして復活しました

博多祇園山笠もここで復活します。

そうしていつしか官兵衛と長政を盛り立てた黒田家主要家臣を、黒田二十四騎と称して祀るようになったのです。

ここでまちづくりの得意だった官兵衛がすごかったのは、通常城の周りに同心状に町を作っていくのが戦国の習わしであり、戦のときには町が敵からの第一の防御地帯として期待されていた発想を180度転換し、西と南は福岡城に守らせ、東は別の出城をいくつも築いて博多の町を城によって守ったことです(北は港ですので海です)。

こうすることで商人に安心して商売や取引をしてもらうことが、ひいては藩の発展になるということを、信長や秀吉のやってきた楽市楽座などの経済振興策をよく見てきた官兵衛はわかっていたのだと思います。

よくお膳立てしてもらうのですが相変わらず商売の下手な筆者からは以上です。

(平成26年7月8日 火曜日 最終更新:平成28年7月8日 金曜日)

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