織田信長だけが本気で天下統一したいと思ったのではないか

信長の野望シリーズ

 

天下統一は織田信長だけの野望だったのではないかという意見について論考しました

おはようございます。

2014年1月のゲーム好き筆者提供のブログ配信記事です。

日本の戦国時代をテーマとした歴史シミュレーションゲームの草分け的存在であり今も同ジャンル最大手の地位にあるといってよい「信長の野望」シリーズですが、これがヒットしたのは全国あらゆる登場武将に天下統一のチャンスがあるというマルチシステムにあると思います。

すなわち登場する大名全てをプレイヤーが操作する主人公として選択することができ、思い入れのある地域の武将や好きなエピソードを持つ大名に成りかわり、ゲーム上の世界ながら武将や軍、領国を拡張して天下統一を果たすというところが受けたのだと思います。 そうなる前提として、現実の戦国時代も、諸国諸侯相乱立して互いに天下を窺いしのぎを削るといったシチュエーションだったと思いたいのですが、どうもそうではなかったらしいのです。

室町幕府の衰退と天皇家を頂点とする公家勢力の衰退、地方領主の勢力伸長によって数百年戦乱が続いていた戦国時代にあって、改めて日本の新しい秩序と仕組みを自らの手で再構築してやろうといった革命的な発想は、どんなに有能な領主であっても持ち得なかったと思うのです。

まずは己の家系の存続、次に近くの領地の切り取り拡張といったことこそ「常識」でした。

うかうかしているとお家もろとも潰されてしまいますので。
一気に京に上って天下に号令し、諸侯将軍家公家に寺社勢力と権力乱立ぶりも混乱ぶりもまさに当時の日本の縮図だったであろうこの地を、時には比叡山焼き討ちや将軍家追放といった過激な方策を用いて新しい秩序体系の下で落ち着かせ、その上で安土城という新しい天下布武の拠点を京の近くでありながらも全く別の地(水利交通の便ある琵琶湖畔)に作るといったことを考え実行したのはただ一人織田信長しかいません。

自らの拠点も自国の伸長に合わせて清州城(既存)→小牧山城(新築)→岐阜城(稲葉山城を改名し改修)→安土城(超新築)と変えていき、自らの統治の独自性を追求していきます。

ですので、天下統一というのは後の時代の我々として常識になっているようですが、当時ではそんな突拍子もないことを考えた革新的な構想は信長くらいしか持ち得なかったのではないかと思うのです。 合戦レベルの強さでは同格以上と言ってよい武田信玄や上杉謙信、領国の絶対面積で優に勝る西国の覇者毛利元就や関東小田原の北条氏康、攻められにくい地の利のある四国の雄長宗我部元親や東北の伊達政宗、九州の島津義弘でも、自分の領地を増やすことに多大な興味はあっても、居城を動かすことは殆どなかったのがその証拠と言えましょう。 信長のこのような「天下に号令する」という行動を見た同時代の人が、あたかも時代全体がそのような雰囲気だったと思い後世に伝えたのかもしれませんが、今の知見を無意識に当時にあてはめると間違った解釈になるよい事例ではないかと思います。 世の中の半歩先を行きたいのですが、気付けば周回遅れぎみの筆者からは以上です。

(平成26年1月8日)

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