(2019/10/21)「邪馬台国」比定地について筆者説をアップデートして「筑紫平野」のどこかと変更します

おはようございます。

2019年10月の邪馬台国比定地論争に関して、これまで筆者がいろいろ述べていた一応の比定地を、今般その後の研究も含めて「筑紫平野一帯」と変更しますという記事です。

これまでは、2014年10月31日付記事にもありますとおり、水行10日、陸行1月、という記述を元に、宮崎平野あたりを比定していたのですが、この説を改め、新たな筆者説としては、「筑紫平野」を比定地といたします。

先の記事を書いてから5年間に、いろいろと筆者も「勉強」「学習」しまして、その軌跡を詳か(つまびらか)にしますとちょっと紙面が足りなくなりますので、要点だけ端折って申し上げます。

まず、①魏志倭人伝の記述である「帯方郡から女王国にいたるにのに、一万二千余里」とあり、そして②「帯方郡から狗奴韓国まで七千余里、狗奴韓国から松盧国まえが三千余里、そこから伊都国までが五百里」とありますので、これを合計すると一万五百余里となります。

とすれば、①−②で伊都国から女王国までは、千五百余里ということになります。

伊都国から山を超えた向こうの、広大な筑紫平野に広がるのが邪馬台国、そして卑弥呼がいるので連合王国の長としての「女王国」でもあったのではないでしょうか。

そして、このまま続いて、③それと矛盾する、なんだか伝聞的な「南、投馬国に至る、水行二十日。南、邪馬台国に至る、水行十日、陸行一月」という記述については、この開始点を、「不弥国」ではなく、おおもとの「帯方郡」からの道のりをおおよそ記載した、と読むことで解決できるのではないかという結論です。

そして、投馬国の方は、(帯方郡より)水行20日で着くということですから、今の宇佐大社がある、宇佐平野(現在の豊前市、中津市、宇佐市)を比定します。

そして、卑弥呼を継いで女王となった壱与(トヨ、とも言う)は、水害が起こって国力が落ちた筑後川流域から、この投馬国があった宇佐平野に移って、そしてそこで「即位」したのではないかと想像します。

こうして、邪馬台国から投馬国が「女王国」となり、この南に位置する狗奴国、おそらく熊本平野か菊池平野あたりに勢力を持っていた男王の国、と対峙したのではないでしょうか。

今日は結論と、最もそのよりどころとなった基本的な解釈の変遷だけを記させていただき、詳細は今後の発表に代えさせていただきたいと思います。

古代史好きからの今日のコメントは以上です。

(2019年10月21日 月曜日)

▷▷次の記事は

邪馬臺国謎解きシリーズ(2014年10月版、全5回)

(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

(その5最終回)

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