先生病を避けよ

人に教えてやるという気持ちになってしまった瞬間に人は先生病という心の病にかかる

おはようございます。
世にも恐ろしい病気である「先生病」という病について書かせていただきます。
この病は、自らが自らの努力や自学によって積み上げた知識やスキル、それらによって醸し出されるはずの好ましい人間性を、根こそぎダメにしてしまう、恐ろしい病気です。
自分は凄いという勘違いに陥り、それまで積み上げた草の根の知識や現場に即したスキルはふわふわと浮遊を始めます。
世界が、地球が自分の周りを回っているような全能感、錯覚に包まれ、目の前の対象に対する謙虚な振る舞いは影を潜め、いつのまにか◯◯しなさいという命令口調の表現が多くなるという初期症状が現れます。
続いて、自分に都合の良い事象や環境についてしか耳を傾けなくなります。
口は一つで耳は二つ、という意味を忘れ、自分の主張ばかりが先につき、耳の痛いことを聞くことがなくなります。
聞いても我慢できませんので反発します。
目は二つありますが、片方つぶっているように、近くのものしか見えません。
しまいには、先生と呼ばれる場にしか姿を表すこともなくなり、先生の前に人間であることをやめて、表面的な薄々の人間関係だけに細っていることに気づかないまま、先生という肩書きが取れることを極度に恐れ、しまいには先生の前に人間をやめてしまっているような、そのうち周りには誰もいなくなっていたという、孤独な、とても恐ろしい病巣なのです。
先生と呼ばれることの高揚感は、(他人からの)承認要求の塊でありそれゆえに、20万年という長い間を、南極大陸を含む地球上の全ての土地に75億人まで広がった我々人類の宿痾というか、存在価値そのものの欲求に即した麻薬のような甘美さでもありまして、一度味わうとやめられなくなること、まさに麻薬のごとしであります。
他人から頼られる、人から敬われるということの「状態」は非常に心地よいものですが、それ自体は単なる状態に過ぎず、自らが主体的に自己責任で何かを為す、ついてはその為したことに対する責任もきっちり噛み締めるという、主体性が尽く(ことごとく)取り払われ、単に人から感謝なり承認を「される」ことでしか自分の存在の価値を測れない、そのような残念な生き物になってしまうという非常に危険なリスクをも孕んで(はらんで)いるのです。
つまり、この病は自己承認欲求に対する依存症の一つの傾向に過ぎませんが、非常に強力な病気であるとも言えるのです。
自分という人間を認めるために、他者の無条件の承認が必要であるというのは、もちろん赤ん坊から思春期までの子供に対しては家族の無償の愛というものなどで考えるに当然に必要なものであると考えますが、自分自身を確立、自立できておらず、正しく大人になることを放棄したまま先生などと呼ばれる地位になってしまうのは、非常に、本人にとっても周りにとっても不幸な状態であると思います。
本来、自分(自我)が確立しておらず他者の承認がなければ自分自身を認められないというのは人間の自立という面では非常に大きな課題認識がされていなければならないと思うのですが、残念ながら、そのような未熟なままの人間ほど、手っ取り早いが本質的な課題解決にはならない「肩書き」に飛びつきそういったまともな思考を自ら麻痺させてしまうのです。
人間とはきっちり「今」を生きて、そしていつか迎える「死」にきっちり向き合い、できるだけ穏やかに自省して過ごし日々生きている命ある自分に感謝するというのが人生で大切なことではないかと考えておりまして、対外的な自分の見え方と自分自身の自我との境界線をわきまえ、自分という人間が存在していること自体をありがたいことである、尊いことであると自らが(他者の評価を気にすることなく)感じられることが幸せであり、そうして初めて自らの人生が始まるとすら考えているわけです。
人間、〇〇をしているから偉いのではなく、ましてや〇〇という「状態」にあることから尊いのではなく、この世に生きるまたとない人間として、自分自身が自分を認めて主体的に歩き始めることが大切だと思っています。
そこを踏み間違えると人間は途端にスカスカになり、つまり人にどう見られるかを気にしだすともはや自己承認欲求の奴隷となり、表面はクリームですが中身はプラスチックの披露宴のケーキのように、見栄えだけがかつての昭和の歌手の小林幸子さんの紅白歌合戦の衣装(数億円ともいわれる)のように肥大化し、食えたもんじゃなくなるというものです。
先生病という病は他者を見下す結果、自分を大切にしないこと、自分を虐待することすら撒き散らしていることになるということを意識するということはとても大切であり、「先生」であることを自己顕示の道具に使っていることがないかどうかと日々自分に向けて自問したいと思います。
先生病の恐ろしいところは、自己承認要求を一見満たしているこのような状態を、気持ち良いものと勘違いし、「先生病」にかかっていることにすら気づかないということだと思っています。

他者からの承認要求に屈しないこと

つまり、他者からの承認の欲求が強い自分に自分自身が日々気づけるかどうかです。
これは相当意識をしないと、誰もが、真面目に取り組んでいく傾向のある人ほど、実はいつの間にか陥る可能性が高い病気だと思います。
自分の人生を生きていないことだという認識があるかどうか、「(他者に)承認される人生」に陥った人間にはその点の気づきや矯正が難しいのです。
自分という人間の、自分という人生において大切なことをただ一つだけ挙げるとすれば、「自分で自分という人間の命の尊さを自分で認め、自分で自分を慈しむことができる」というただ一点と思います。
「先生である自分」や「人から羨ましがられる自分」という条件つきで自分の尊さを計ると自分の軸が狂っていきます。
自分の軸が狂った人生はもはや自分の人生ではなく、他人の目や自分の評価を気にするあまり「身近な存在を乱用して自分の立場をよく見せよう」と無意識のうちにしてしまいます。
これは、他人の軸で生きることでありとても勿体ないことであります。
勘違いの高揚感ゆえに死ぬまで、いや、死んでも気がつかない可能性が高い、自己の成長を止める恐ろしい病である先生病から抜け出すためには、とにかく、誰とも比べない自分自身の生きていることのありがたさや尊さを日々感じるように努めることではないかと思います。
仕事やプライベートで、何らかの「成果」が上がったとして、感謝された場合に、いいことした、と一瞬思うのはいいとして、そんな高揚感が欲しくて同じような体験をもっとしたいしたい、くれくれ病にならないように気をつけていきたいです。
ポイントは、他者の感謝や承認、認定とかかわらず、これからやること(仕事でもプライベートでも趣味でも)に対し、まず自分が楽しむ、自分で準備から結果まで味わうということを徹底して、自分が存在する意味がこの活動で見出せるかという点から考えてみることとしたいと思いました。
今日は自分探しの記事になりましたが、これもまた、「自分自身」に対して日々ズレないように言っておきたいことを言語化してみたものです。
かの吉田松陰先生は、松下村塾に集まった塾生に対し、「教えるのではない、共に学ぼう」と呼びかけたそうです。
筆者も、調子に乗るなよということでございます。
わたしは、特別感や全能感、選民感を持たないよう、くれぐれも自制して過ごしています。そういうところが見えたなら、遠慮なく言って欲しいです。
それでは、こちらからは以上です。
(2020年2月17日 月曜日)

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(2020/01/22)少子化ストップ!国家消滅の危機である少子化に唯一対抗できる筆者の最終究極プランを策定したので開示いたします