(2020/02/26)人とリアルに会うことがリスクと認識されるようになったという人類史上始まって以来というべき「パラダイムシフト」を受けて我々はどうすべきか考えた(けれども結論は出なかった)エッセイです

世界人口 1800-2100年(国連 (2004) 及びアメリカ国勢調査局の評価・推計に基づく) 推定値 統計値 国連の推計値(高位) 国連の推計値(中位) 国連の推計値(低位)

おはようございます。

2020年2月、中国武漢(ウーハン)で始まった新型コロナウィルスの影響が世界中に広がっていくにつれて、まさに小説のような話ですが、この新しいウィルスに感染しないように、世界中、特にアジア地域において急速に「人とリアルに会う」ことを避けるようになってきて、数日が経過しています。

人のこれまでの感覚では、まさに人類開闢(かいびゃく)以来20万年間、まさに人間とは社会的動物であり相互に協力し、要するに相互依存の中から分業し、社会を作り、発達した脳と手をフル活用し、腰痛という形態上仕方のない「持病」を持ちながらも二足歩行をして、視線を精一杯高く保って背筋を伸ばして頭という巨大な重り(ボーリング玉くらいの5キロほどの重さ)を支えるという、他の動植物では考えられない生体機構と相互依存の社会性を持って、2020年1月末現在、ググってみたところ、だいたい76億人という人数の人類が、この地球上のあらゆるところに生息するように至ったわけです。

しかしながら、この、「協力する」「相互に依存する」「承認しあう」「社会を作る」「絆」「つながり」等々、これすべてほとんど全て、物理的に、手の届く範囲で人間同士がコミュニケーションを取る、ということで培ってきたものなのです。

ここにおいて、新型コロナウィルスという、人が人を通じて媒介することがわかっている「病原菌」を遮断するために、人と人との直接物理的接触(近くに寄ることも含む)をやめてください、と「推奨」「要求」されても、さて普段の生活からどのような具体的な対応をしたらよいのか正直わからないというのが本音なのではないでしょうか。

それは、人類の歴史上、想定していなかった程度の影響でありまして、人のそれぞれの感覚の温度差の中で、正しい解を探すのは容易ではありません。

例えば、筆者は会社や職場、用があるところに来るまでに、いつも使う公共交通機関、すなわち乗合バスや地下鉄を利用するのは、「周りの人に迷惑になりそう」と考え、なんとなく気乗りがせず、歩いてシェアリング自転車の「メルチャリ」を駆って、そうしてそろそろと職場や学校に来たりしているわけですが、そもそも、小中高生の全日制「学校」などで机を離して授業するなど、どのように対応したものか、各機関や組織が、皆頭を悩ましているという状況です。

正解などないというこの世の中で、いろいろな人が、専門家含めて、正しく怖がるという「自己責任論」くらいしか言うことがなくなって、そうして、リスク回避の組織、例えば公立小学校などからはこぞって、

・全校レベルの「集会」の取りやめ(このままでは「卒業式」「入学式」すらなくなるかも?)

・放課後の学童保育や校庭や体育館を利用した遊び場作り(わいわい広場)の中止または大幅な縮小

・昼間、土日祝日の校庭体育館のサークルやスポーツチームへの開放の中止

といった「措置」がなされてきています。

人口減少の影響が叫ばれている中、さらに公園や校庭まで廃墟としてしまおう、という動きです。

これを良かれとしてやざらるを得ないというのが、もどかしいところです。

これは、グラウンドを利用した、例えば少年野球とか、サッカーとか、そういった学童スポーツからあらゆるイベントを、公的機関を利用しては行えない、私的機関を利用するならば自己責任で、ということに等しく、人々の経済活動、文化活動、体育活動を著しく阻害することであり、もはや新型コロナウィルスの直接的な感染や死亡の被害を簡単に超える影響が出ることは確定してしまいました。

正しさを追求し、人との直接接触を避けるという総論が、そのまんま、各論に落ち続けた結果、正しさを追求すること自体が混乱や他の影響に飛び火する、という現象に世界中が陥っているわけです。

そうは言っても、その中で大多数の「普通」の人たちは、普通に生活してよい、という権威からの許可が出てくるようになってくるのではないかと思っていますが、それも含めて、自分は病気になってもいいけど、他人に知らず知らずにうつしているのは嫌だという、至極当然な、社会的存在としての人間としてまっとうな感覚を持っている以上、この「自粛」の影響は当然長引きそうです。

できることをやる、ということで、リモートワークとかテレワークとか、動画授業とかオンライン授業といったものが「見直される」のはとてもいいことだと思いますが、それよりも何よりも、それゆえにリアルに集まって話ができる場が大切であった、普通に旅行に行けることがこの上ない幸せであった、というようなことが再認識されているわけですが、願わくば、この新型コロナウィルスの経験から世界中が学ぶべきは、もはや世界の一部地域で押し込めておける問題などなくて、これだけ膨張した人類社会全体をそれなりに着地させていくには、まだまだ、人間は自らのことを学ぶ必要があるのではないかというようなところでした。

過剰と言われても、何かできることをやっておく、そのやり方がうまくいきそうならばみんなが倣う、というのは、これまでの人類の歴史でよく起こってきたことです。

この起こり方が激しく人類史上に起こった順番として、①農業革命(食糧生産力の向上)、②通貨革命(価値の保管、計測手段としてのお金の発明)、③産業革命(化石燃料を利用した食糧含むあらゆる産業の生産力の飛躍的向上)といったものがあるかと思いますが、この今の時代を後世の歴史家が評価するときには、④情報革命、といった言葉で説明するのかもしれません。

いつの時代もそうですが、いつも我々は歴史の最先端に生きているわけでして、遠い過去から連綿と続いている生命のバトンを受け取って、次に渡す必要があるわけですが、過去の遠い遠いご先祖様に、それなりの顔向けができるように振る舞っていきたいと小さな希望を持って生きていきたいと思います。

世界のあらゆる国の貧困が、急速に解消されて世界中が最貧国を脱して発展途上国から先進国になっていくにつれて、どうしても出生率が下がり人口減少社会がやってくる、というのが、安心安全を追求した結果人口の抑制が起こる、というこれも、人類社会が過去から経験したことのないパラダイムシフトの中を我々が生きていることの大きな事例だと考えています。

これを書いている中でも、大手広告代理店の電通が、本社ビル勤務の社員関係者に新型コロナウィルス患者が出たことを受け、社員全員出社禁止の在宅勤務にしたり、介護施設や老人保険施設においても、家族でも面会謝絶の対応となるなど、新型コロナウィルスそのものの影響をはるかに超える社会的経済的影響が出てきています。

なかなかまとまりのない文章になりましたが、今の筆者の問題意識みたいなのを、できるだけわかりやすく言語にしてみました。

ご覧いただきありがとうございました。

それでは、今日も頑張っていきましょう。

本日の、こちらからの記事は以上です。

(2020年2月26日 水曜日)

(2017/11/18)超高齢化人口減少社会をいつまで続けるのかという大変深刻な話です