個人の見解であり関連する組織等とは関係ありません

(2020/01/31)ある子ども食堂の閉鎖に際してにわかな中途半端な理解こそが世界を不幸にすることが多いと感じることについて書きました

子ども食堂

おはようございます。

令和2年も1ヶ月が過ぎようとしています、2020年1月最後の配信記事です。

さて、落語のような話し始め方をいたしますが、この世の中、にわかな中途半端な理解や認知は、無知そのものよりもはるかに怖いというか恐ろしいというようなことは、よく振り返ってみると多くあるものです。

何かを始めようとする時に、中途半端な理解や認知を持っている、いわゆる普通の、常識的な人々の、無気力な反対や賑やかしに、どれだけ世界の前向きな取り組みが潰されてきたか、挙げればキリがありません。

何かを一緒にしようとしても、とにかく反対する、サボタージュする、無理よりも恐ろしい中途半端な知識である自由や権利を主張する、非協力な態度を取られるという状況です。

そうした、時間浪費型の無気力なクラスメイトや社会人、そういった方々は、そのほとんどが、実は何不自由ない普通の家庭で過ごし、それゆえに世界との関係を無自覚に過ごすだけの普通の人たちが多かったような、そんな気がするのです。

親が片一方もしくは両方ともいない、とか、経済的にむちゃくちゃ困窮している、とかいった「事情」を持ったクラスメイトの中には、それは暴れん坊や不良もいましたが、そうではなくて、6年間にわたって一学期か二学期の学級委員を必ずやらされた筆者のようなものにとって、より手強かったのは、クラスの多くを占めた、こうした一見良い子供のようで知識武装をした、にわかな中途半端な普通の人たちだったのです。

普通じゃない、例えば家庭環境に「問題」「特徴」がある、例えば片親である、片一方の親が離婚していない、死別している、兄弟が引き取られていった、おばあちゃんのところから通っている、といった子供たちも、それは問題ではあったけれども、人間としての熱のようなものが存在する彼らのような人間は、いろいろと衝突があった分を割引いても、逆に付き合いやすかったとも言えるのです。

筆者の小学校から中学校1年にかけての一番仲が良かった、N君という友人は、お母さんが死別している(離婚だったのかもしれない)という「事情」を持っていましたが、小学校の多くの時間、それから中学校1年生の時にも、別のクラスになってもよく話したり遊んだりする仲でした。

そのN君がこれまた家庭の事情で、どこか遠くに引っ越すことになり(中学生にとっては、隣町の中学校ですら遠いのに、N君は東京とか大阪とか、当時の筆者には耳慣れないどこかの地名を言ったのです)、筆者の前から去って行ったのですが、彼のような事情のある人の方が、人生というものをなんというか、真面目に、自分のものとして考えていて、今となってはほとんどを忘れてしまいましたが、彼とはいろいろこれからの前向きな話をしてきた、そのような気がするわけなのです。

その点、普通の家庭の、どちらかというと恵まれた家庭の子供達の方が、無自覚に、「世の中は平等にできていて当然」的な態度で、無慈悲な毎日をただ過ごすだけの感じがしたのです。

何もしないくせに口は出す、そんでもって、何も自分からは始めないくせに、なんかの得になることには目ざとく反応する、そのような連中です。

社会を見渡すと、そのような無自覚で無慈悲な人々の態度に、殺されそうになっている善意がそこらじゅうに転がっているようでなりません。

黙々とボランティアをしている、ただひたすらボランティアをしていきたいと願っている人のことを、彼らの喜ぶわかりやすい成果をもって、「スーパーボランティア」などと持ち上げ、追いかけ回し、時間を取らせ、挙げ句の果てにその人の聖域であるボランティアの場に勝手に土足で上がり込み、勝手に宣伝して無自覚で無慈悲な善意で本人の精神を羽交い締めにしてしまったりするのです。

子ども食堂を初めてみたら「片親の子、貧困層、不登校気味の子」というような、当初の開店時に想定していた層は全くと言っていいほど来ず、代わりに塾の前に食事をしてこいと送り込まれる富裕層の子とか意識高い系の口うるさいけど手伝わない母子とかばかりきて嫌になってやめてしまった、といったような事例はたくさんあるのです。

もちろん、子ども食堂、と銘打つのならば、そういった客も包摂すべきとか、貧困層のみに入店制限しろとかいう話になるのかもしれませんが、そもそも個人レベルの善意で始まっていることにこのような口だけ連中の社会的な枠組みをはめてどうするのかというところです。

普通の人たちに、普通の知識があるのならば、子ども食堂は開いた時間に利用して、食事代に加えて寄付でも手伝いとか少しやるとか、宣伝に加勢するとか、材料を差し入れるとか、何かプラスアルファになることを一緒にやれば楽しいと思うのですが(筆者ならそうする)、なぜか金持ちに限って、子ども食堂だから和食の手作りにこだわれだの、無農薬野菜を使えだの、待ってる時間は勉強教えろ(塾か?)など、口ばっかりの意識だけ高い系の溜まり場になってしまうのは不幸なことです。

親の夕食の手間削減のために子ども食堂はあるわけではないし、塾通いで子供がひもじいなら弁当作れ、と言いたいです。

勉強くらい、(勉強しろなんていう前に)親が教えるか自学できる環境を作るべきだと思います。

このように、自らは何もしないくせに、意識だけは高く、口はよく回る、という手合いが増えると、世の中ギスギスしますので、そういったことにならないように、中途半端な知識ではなくて、その背景や改善も含めた、前向きな現状認識を行い、決して現状批判の批判屋だけにはならないよう、小規模ながらメディアを標榜しております筆者のこの紙面(電子面)におきましても、戒めとしたいと思います。

何もしないくせに、口だけは出す。

自らは何もやりはじめないくせに、人と一緒の損得にはうるさい。

この記事が、そのような、社会や政治に関する無自覚、無慈悲さに少しでも竿をさすことができましたら、光栄です。

こちらからは以上です。

(2020年1月31日 金曜日)

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