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[不定期連載]邪馬臺国謎解き(その2)

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帯方郡から末盧國まで

おはようございます。

2014年10月の歴史に関する配信記事です。

邪馬臺国の場所比定にあたり、筆者は魏志倭人伝の記述を正確になぞるというアプローチを採用したいと思います。

文献は、インターネットの普及により原文の取得が比較的容易であること、大規模な工数や人員動員がかかる考古学的発掘アプローチは、一個人が取り組める範疇を超えているということが消極的な理由ではありますが、もっと積極的には、当代随一の文筆家が書いた正史の記述は、かなり正確に当時の状況をもれなく反映しているはずだという[人間に対する信用]という理由です。

付け加えるならば、当時の中国にとっては非文明圏であった倭の邪馬臺国などの存在について、わざわざ事実を曲げて記述するインセンティブにも乏しい、余計なバイアスなく純粋に人間としての好奇心を発揮した部分で記述できたのではないかいう前向きな期待もあります。

この点が、我が国最初の歴史書といえる古事記や日本書紀といったものとは徹底的に違うところだと思っています。

特に、日本書紀については、白村江の大敗、それに伴う2千人の唐軍の進駐という非常状況下、失われた我が国のアイデンティティをもういちど盛り上げて再構築するため、中国正史に習った「独自の史書」を作ることを目的としており、原資料として多くの伝記や史書、言い伝えを用いているものの、当時の大和王権にとって都合の悪いことはうまく隠蔽糊塗すべく、意図的な取捨改竄が随所に行われたものではないかと考えています。

相変わらずイントロが長く申し訳ありませんが、いよいよ魏志倭人伝原文に移ります。邪馬臺国の場所についての記述の要点は以下のとおりです。

(イ)倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。

(ロ)漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十國。

(ハ)郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

(ニ)始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。

(ホ)又南に一海を渡ること千余里、一大國に至る。

(ヘ)又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。

(ト)東南のかた陸行五百里にして、伊都國に到る。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。

(チ)東南のかた奴國に至ること百里。二萬余戸有り。

(リ) 東行して不彌國に至ること百里。千余の家有り。

(ヌ) 南のかた投馬國に至る。水行二十日。五萬余戸ばかり有り。

(ル)南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。七萬余戸ばかり有り。女王國より以北はその戸数・道里は得て略載すべきも、その余の某國は遠絶にして得て詳らかにすべからず。

さて、対馬國、一大國くらいまでは対馬壱岐ということで異論はないところですが、その後が謎解きになってきます。

ここで筆者が注目するのは、(ト)伊都国および(チ)の奴國です。

特に二万戸という邪馬臺国(七万戸)、投馬国(五万戸)に迫る大きな人口を抱えるこの「奴國」こそ、筆者が最も注目しそして通説に果敢にも反論しようとしているところでもあります。

…申し訳ありませんが紙面の関係上本日はここまでと致します。

いつになるかわかりませんが次回(その3)にご期待ください。

(平成26年10月1日 水曜日)

▷▷次の記事は

邪馬臺国謎解きシリーズ(全5回)

(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

(その5最終回)

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