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大石内蔵助を訪ねて赤穂城まで行って来ました(@2015年始の旅)

四十七士の一、大高源五(萱野三平の俳人仲間でした)

おはようございます。

2015年1月の神社のお守りやお参りに関するビルメン王提供のブログ配信記事です。

姫路城を見たあとに姫路から車で約1時間あまり、赤穂城に行ってきました。

年始の旅行ということで、赤穂城自体は観覧できませんでしたが、城内は大変な賑わいで、特に城に隣接した大石神社は大願成就のご利益にあやかろうと人だかりができておりました。

有名な忠臣蔵ですが、当時は戦国時代末期から豊臣政権の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いに大坂冬の陣夏の陣に島原の乱、と社会に必要とされていた職業軍人の「活躍」する場所が極端に少なくなってしまい、街に浪人があふれた元禄の世の中に起こるべくして起こった「事件」だったと思います。

ある領域に多くの(能力も高い)人材が集中した結果、社会不安が増すという事例は洋の東西を超えてありまして、例えば戦後の米国でNASA(航空宇宙局 National Aeronautics and Space Administration)の設立に至ったのは、民生品における各企業の研究開発予算が世界的な競争激化により大幅に削られ、研究者を食わせられなくなった、といったことが言われたりします。

彼らのようなNASAに「移籍」した頭脳達は、新しい活躍の場を得て、宇宙探検という壮大なプロジェクトに打って出たのです。

そのような時代背景から赤穂事件は起こったわけで、筆者の解釈や感想としては、赤穂藩主も旧家臣たる浪士たちも、討ち入った者も討ち入らずに他家への仕官を行ったものも、みなそれぞれの人生を一生懸命生きたということであろうかと思います。

萱野三平のお話

大石神社は大石内蔵助をはじめとした赤穂浪士47人を祀っていますが、同格として中途で自害した萱野三平(かやのさんぺい)も主祭神としています。

萱野は同志との義盟や旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになり、同志と共に約束をはたせぬ罪を詫び、同志の奮起を祈る心を記した遺書を内蔵助にしたため、切腹して自ら命を断ったのです。

当然、江戸時代には幕府の手前、こうした浪士たちを表立って祀ることはできませんでした。

しかし、時代は下って1868年(明治元年)、ついに明治天皇が赤穂浪士の墓のある泉岳寺に勅使を遣わしこれを弔って以降、大石神社として「創建」されたというわけです。

まるで隠れキリシタンのように、民間の伝承や振興は、時の試練に耐えるものだと感じました。

出自は天草上島、赤穂事件より遡ること約60年、まさにキリシタンと農民が島原・天草の地で幕府と戦い散っていったご先祖様を持ちます筆者からは以上です。

(平成27年1月14日 水曜日)

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