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好評につき石田三成斬首後の関ヶ原のその後について論じてみます

おはようございます。

2016年8月の歴史に関する配信記事です。

先日書いた石田三成に関する記事が意外に好評だったので、その続きの歴史を書こうと思います。

関ヶ原においては、豊臣恩顧の大名の引き抜き合戦を制し戦いにも(小早川裏切りと毛利傍観により)完全な勝利を収めた徳川家康ですが、これはあくまでも建前上は豊臣傘下の大名同士の戦いでありました。

したがって、徳川方についた黒田長政や加藤清正、福島正則といった諸将たちは、馬の合わなかった文官肌で補給担当に過ぎず太閤秀吉の威光を笠に着た(と彼らには見えた)石田治部三成を嫌って、これを除くために東軍についた面もあると思います。

しかし、関ヶ原後の戦後大名処分において、黒田福島加藤とも、大幅な加増を受けて大大名の仲間入りをしますが、なぜか徳川家康によって主導された関ヶ原戦後の論功行賞により諸大名に預けていた豊臣氏直轄領である蔵入地が、西軍大名の改易に伴い一緒に没収されてしまったのです。


一番肥え太ったのは徳川

一番加増したのは、当の徳川家康で、260万石から400万石を超える所領を得ました。


実は、関東平野に追いやられた徳川家は、新田開発に精を出し、かの地を大生産地に変え、石高や生産力ですでに豊臣家を上回る実力を蓄えつつあったのです。

完全なお手盛りです。

この中から、新しい領主の領地もあてがわれ、豊臣秀頼の領地は激減しました。

実に222万石から、摂津・河内・和泉三国65万石余に大幅な事実上の減封を受けたのです。

減俸額、減俸率ともに、そもそも東軍西軍の上に位置する大君である秀頼に対するこの事実上の処置に対し、黒田福島加藤とも、内心忸怩たる思いだったと思われます。

福島正則は、徳川家康に対し、関ヶ原の事を起こすにあたって「秀頼公に異心なきこと」を何度も問いただしていますし、加藤清正も、あくまで忠誠を誓う対象は秀頼であり、徳川方につくのは方便と公言していました。

この二者は、関ヶ原戦後に「福島と加藤と徳川は同じ豊臣秀頼配下の対等な大名である」という原則論を曲げなかったことから、いずれも徳川家にとって面倒な存在になっていったようで、関ヶ原の功績は昔の話として両家とも改易という運命を辿ります。

例外は黒田家で、藩祖黒田官兵衛ゆずりの軍略と武勇に秀でた大将に成長した黒田長政は、時代は徳川に味方すると見抜き、豊臣家の恩顧に報いるより未来志向で行くと脱皮したのかもしれません。

陰湿で疑り深い徳川家康と秀忠の親子が、最後まで警戒した豊臣恩顧の大名が福島正則と加藤清正ならば、それ以前からの戦国大名で警戒して懐柔するのに大きく気を使ったのが、奥州の伊達正宗と、加賀の前田家でしょう。

いずれも、謀反されれば江戸や京都の後背地が一気にレッドゾーンになってしまいますので、大坂の陣に至ってついに豊臣を滅ぼす流れを作るときには特に、これらの大名の離反を防ぐために、ありとあらゆる権謀を用いたのは間違いありません。

島津に暗君なし

そして最後に、いくら味方に引き入れようとも頑として受け付けず、来るなら来いとのポーズを崩さず突っ張った西南の戦国大名がいます。

筑前福岡に封じられた黒田家よりもっと遠く、薩摩の地を鎌倉時代から治めている名門島津家です。

島津に暗君なしと言います。

九州制覇の直前で秀吉の九州入りを招き帰順した島津家ですが、江戸を根城にする徳川家からかの地は遠く、一戦交える覚悟で臨めば幕府もうかつには手が出せないことを時の事実上の領主である島津義弘は見抜いていました。

島津義弘は西軍で単独わずか1,000の兵で関ヶ原を戦い、敵前に突っ込み敵中突破するという古今例にない退却戦を演じ、薩摩に戻りつきました。

そうして激烈な駆け引きと何よりも関ヶ原に派遣しなかった大部分の精強な薩摩兵の力のもと、薩摩鹿児島77万石は全く減らされずに安堵されたのです。

未来を前から予め見ることはできませんが、歴史は振り返ることができます。

いろいろ学ぶことが多いものです。

今宵はここまでに致しとうござりまする。

(平成28年8月18日 木曜日)

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