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邪馬臺国論争を改めて解説しておきます(まずはおきまりの畿内説から)

箸墓古墳(奈良県桜井市)

おはようございます。

2013年9月の記事です。

最近の小学校では高学年の社会の授業の参考に、魏志倭人伝の原文コピーを配るところもあるようで、家に持ち帰られてきたそのわら半紙プリントを見ながらしばし懐かしがっておりました。

この我が国について書かれた(よって現代の子孫も読むことができる)ほとんど最古の史料を小学校における歴史教育に使うのは、何事も原典原文に触れるべきと考える筆者としては大変いいことだと思うのですが、さてそこに載っている邪馬臺国という国がいったい我が国のどのあたりにあったのかがさっぱりわからないというのが悩ましいところです。

大きく、機内説と北部九州説とありまして、考古学的発見も合わせて卑弥呼の国都は一体どこか論争されてきました。

後ほど、筆者の個人的見解も述べたいと思いますが、これはあくまで個人の意見でありますところ、例えば家に帰ってきた子供に対し「本件は、公式に学校では未定としか教えられないが、自分はこう思う」という立場を示しておくことも重要かと思ったゆえのことです。


とりあえず畿内説の概要

まず最初に、現時点で卑弥呼の墓の第一候補と言って良いのが、奈良の纏向(まきむく)遺跡の代表的な古墳である箸墓(はしはか)古墳です。

巨大な前方後円墳で、まさに大和朝廷に至る機内有力者の墓であることは間違いありません。

日本の古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳で、以前は、築造年代が卑弥呼の死亡時期とずれているという指摘もありましたが、考古学の発達により、年代推定が精度を増した結果、まさに箸墓古墳の築造年代が卑弥呼の没年(西暦248年から少しあと)に一致することとなり、この古墳こそ魏志倭人伝が伝える倭国の女王、卑弥呼の墓とする説が一気に浮上してきました。

そして箸墓古墳を含む一帯の纏向遺跡の大規模発掘調査の実施により、大規模な祭祀が行われた跡や、都市構造の遺構など、魏志倭人伝に記載されている「国」のレベルに匹敵する大規模な「クニ」があったことは間違いないことがわかってきました。

…と、ここまで書いておきながら、筆者は機内説をとりません。それはまた次回に譲ります。

筆の進みの遅い筆者からは以上です。

(平成26年9月19日 金曜日)

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