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今の東京中心の我が国の原型を辿ると小田原北条氏に行き着くという話

小田原城

おはようございます。

2017年1月の配信記事です。

我が国400年ほど昔、関東平野は牢人(浪人とも書き今ではこちらが主流ですが)北条早雲を始祖とする後北条氏が小田原城を居城として4代100年に渡り最大版図240萬石を支配する地でした。

因みに当然正式には単に「北条氏」ですが、歴史の先達に代々鎌倉幕府の実質的頭目として執権の地位にあった「北条氏」がいて直接の関係はないことから、便宜上後代の史家が両者を区別するためこちらの伊勢平氏の小田原北条氏には「後」をつけるようになったそうです。



領国経営の方法は極めて合理的かつ組織的官僚的

この後北条氏は、内政統治に優れた大名として北条早雲以来、日本史上最も低いと言われる四公六民の税制を行い、大規模な検地を定期に実施し歳入管理を徹底し、在地の豪族・国人に徴税実務を任さずこれによる中間搾取を排除し、そして飢饉や戦乱の際には効果的に減税を行うといった、極めて公正な政治を行い、もともとの関八州の地味に富んだ地政学上の地位にも助けられ、安定した両国経営を実現したということです。

因みに農耕技術の発達により、関東ローム層という富士山火山灰が降り積もった地での農業生産もこの頃になると上がってきたようです。

その政治のやり方としても、早くに合議制による効果に着目しており、家督相続においては正室を重んじ廃嫡騒動や家臣団の派閥化を防ぎ、意思決定においては定期の小田原評定による議論や虎の印判による官製文書など、室町幕府由来の極めて精度と効率の高い官僚制度を持っていました。

まるで昭和後期の高度経済成長を成し遂げた日本の原型を見るようです。

しかしそのような戦国時代に保たれた100年の平和も、京の聚楽第を本拠に、西は九州まで制覇し尽し東北宮城の伊達氏も配下に収めた豊臣秀吉によって侵されることとなります。

小田原城が降伏するまで落ちなかった忍城(おしじょう)

この小田原攻めの中、後北条氏の数多ある支城の中に、北条方成田氏が籠もる「忍城(おしじょう)」がありました。

沼地に浮かぶ城はまさに浮き城に相応しい威容で、秀吉は、本拠地小田原に次ぐ兵力2万人を、功臣石田三成に命じてこの忍城に差し向けます。

理財(後方補給)には功のある三成に、武功を立てさせ家臣団の嫉妬を黙らせたいという秀吉の余計な配慮と、理財に比してどうも軍略に素養のなかった真面目人間石田三成により、忍城攻略戦の幕が切られます。

結果、城に籠もる成田正親以下農民兵含めて3,000人を攻略できないまま、小田原の本拠のほうが先に陥落して戦が終わるわけですが、ここで豊臣軍が忍城を落とせなかったのは、三成自身が認めるように自身の軍略の欠如が決定的要因と言えましょう。

しかし、それでは後世に残る物語にならないのではないかと思うのです。

強いものがただ勝つのはつまらない

強い者がただ勝つ、というそれだけの世の中は何とつまらないものか、という成田長親の命を張った「正直な気持ちに沿った覚悟」が軍略を超越したという方がだんぜん面白いのです。

三成は勝って当然、天下人の戦いをしようなどと勝者の奢りに満ちている。

守る成田側は、領民総出で城に立て籠もり、一泡吹かせようとエリート軍団を迎え撃つ。

緒戦に手痛い負けを喫した三成は、備中高松で秀吉に見せられた水攻めをしたいと言います。

これは合戦による手柄を奪うことなので諸将の士気はますます下がり、結局三成は部下からソッポをむかれていきます。

逆に成田長親はおのれの命をかけて百姓の心をつかみ、堤防を決壊させます。みんな命をかけて戦っているのだから、これは大きな差になります。

三成はその後関ヶ原で敗走、京都六条河原で斬首、一方成田正親は68歳まで生きたそうです。


小田原北条氏の領国と経営制度はそっくり江戸幕府がいただいた

さて負けた成田氏ですが、その家中の多くは新たな関八州の首領となった徳川家康によって高禄をもって召し抱えられたそうです。

さらに後北条氏が持っていた官僚制度の多くをそっくり受け継いだ徳川幕府が、それまでの日本の首府の地位を、京から江戸(そして明治以降は東京)に移したのです。

今日も、都の地位は京都御所ではなく千代田区丸の内の皇居にあります。

そう考えると小田原北条氏は、今の東京を中心とする日本の原型を作ったといえるのではないでしょうか。

そんなことを考えながら関東平野に思いを致した筆者からは以上です。

(平成29年1月26日 木曜日)

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