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(2017/02/28)(歴史探訪雑談)名付け親との関係性について具体例から論じてみたいと思います

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おはようございます。
2017年2月の配信記事です。
最後まで読みますと、ちょっとすごい話です。
名札のイラストしかなかったので若干イメージが違うような気がいたしますが、今回は歴史的な名付け方法から、いわゆる名付け親との関係性について触れてみたいと思います。
まず、平成29年大河ドラマ「おんな城主直虎」においても、いよいよ青年期の徳川家康が登場してきましたが、この青年、三河のぼんやりとか言われてかわいそうですが、当時の名前は「松平元康」です。
元、の字は当然人質同様に預けられていた駿河の大太守、今川義元の元をもらったものであることは明白です。
そのうち、今川家が桶狭間を経て滅び、松平家は独立して、元康は元の字を捨てて家康と名乗ったわけです。
そして、その家康が当初後継とは考えておらず、目の上のたんこぶであった豊臣秀吉におもねって子供につけた名前が秀忠です。
秀、の時は秀吉から賜ったのは明白です。
徳川15代将軍を見渡しても、家の字がついてないのは秀忠、綱吉(吉綱と書いておりましたので間違い)、吉宗、慶喜くらいですから(間違っていたらご指摘宜しくお願いします)、秀忠の名前は、憎っくき豊臣家を滅ぼしても残ってしまったということで家康は無念であったことでしょう。

三代将軍は「家光」、光はどこから?

そして、生まれながらの将軍には、家光と命名しました。
今回は、もはや誰に気兼ねすることもなく自分が名付け親になれるものですから、家の字は当然として、さて光の文字はどこから採ったものなのでしょうか。
筆者はいろいろ本を読んだ中で提示したいのは、「明智光秀」の光を取ったのではないかという考え方です。
そもそも、本能寺の変において、明智によって暗殺されるべきは徳川家康だった、という大胆な仮説をもって、それを信長の命として避けることはできないと覚悟した光秀は、この計画を家康に漏らし、そして主君の信長を打ち果たし、そして家康は見逃して本国三河に帰らせた、というところではないか、と考えるのです。
そうして体制を立て直し、徳川・明智の連合軍で戻ってくる信長家臣を迎え撃つという段取りが、羽柴秀吉に何らかの形で情報が漏れ、そして急遽の中国大返しになり山崎に明智は体制立て直すまもなく戦って滅びたというような感じではないかと思うのです。
そうなると、家康は自分と自分の家を救ってくれた光秀に非常な恩義を感じているに相違なく、それで後継の孫に家光という名を自ら用意したのではないかと思うのです。
勝手な想像をたくましくした歴史の推理は以上です。

(平成29年2月28日 火曜日)

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