個人の見解であり実在の組織等とは何ら関係ありません

関ヶ原前夜に家康を激怒させた直江状に習ってブログ文体に活かします

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雪国

おはようございます。

2016年8月最後の記事です。

日本歴史上未曾有の大戦である関ヶ原の戦いは、豊臣家を支える五大老のうちの一人、上杉謙信の流れをくむ会津に戻った上杉景勝に対する徳川家康の陰湿でしつこい追及から始まりました。

石田三成を始めとする豊臣秀吉の旗本であった五奉行の力を削ぎ、石田三成を放逐して代わりに伏見に入った徳川家康は、当時五大老筆頭というよりただ一人の「内府」として、ほぼ天下を手中にしておりました。

しかしながら、あくまで豊臣政権下での第一人者という地位での事実上の権力者です。

豊臣恩顧の家臣団を、秀吉の遺命によって禁じられた豊臣恩顧の大名も含んだ養子縁組を駆使して確実に切り崩しつつありました。

徳川の世になってしまえば、自身も用済みとなってしまうのかという恐怖と、現実的な選択肢の狭間でだんだんと内府に取り込まれていく諸将たち。

筆頭は、国許に帰された瞬間に謀反の嫌疑をかけられ、すぐさま上洛して完全に手を挙げて家康にひれ伏した五大老次席の前田利長でしょう。

父の前田利家亡き後、いかに加賀百万石をもってしても、内府の傘下に入るのが現実的だと判断したのです。

一位と二位が組んでしまえば、あとはやりたい放題です。

そのおかげで金澤の都は加賀百万石の台所として繁栄することになります。

それはそれで選択の結果であり、選択に対して後世の筆者ごときが安全なところから批判や批評をすることは間違っていると思います。

その上で書くのですが、そんな中、土壇場で上洛を拒否して家康との決別、対決を肚に決めた大名もいます。

上杉謙信を藩祖に持つ、五大老の重鎮、上杉景勝その人です。

謀反の疑いあり上洛せよとの家康の詰問に対して、上洛すれば暗殺の懸念あり、上洛しなければ大戦となることは間違いない状況に追い込まれました。

上杉家はここで腹を決めます。

いじめ続けられてきたことに、我慢がならなかったのでしょう。

上杉筆頭家老の直江兼続によって家康の詰問に対する返答が書かれました。

直江状勝手口語訳

一説に直江状と呼ばれる文書で後世の創作という疑いもありますが、非常に痛快ですので筆者などはそのまま家康を激怒させたであろう文書であればいいなと思う口でして、特に面白い部分を自分なりの勝手な口語解釈で紹介します。

1.上洛せよとの要求に対して

 ー上杉家は、藩祖である故郷の越後から(あんたらの命令で)国替えして
  会津に来たばかりなんですけど?
  国替え直後に上洛して…ようやく帰れたと思ったら、
  また上洛しろ?はあ?
  言ってる意味わかってますか?
  困りますな…。
  いったい、いつ領国の政務を行えばよろしいので?
  それから、言っときますけど越後も会津も
  なにぶん雪国でして、
  10月~2月までは何もできませんよ。
  1月に上洛なんて常識外れ(笑)。
  そちらにも東国出身の人がいるでしょうから
  確認してください。
  勘弁してくださいよ(いやほんとマジで)。

2.武具を集めているじゃないかという詰問に対して

 ーええ武具とかそりゃもう絶賛集めてますよ。
  上方(京都大坂)の方々は茶器とか
  装飾物といった人にあげる小道具を集めるのが流行りで
  お好きなようですが、
  私どもは東国の田舎ものですから、武具でも集めております。
  そういえば、東国といえば江戸?あたりにいらっしゃるタヌキな方も
  武具どころか武将もたらしこんで
  自軍に引き入れるのがお好きなようですが、
  まあお互い国ごとの流儀の違いと
  いうことでいいんじゃないっすか。

3.橋をかけたり道を整備したり領国の整備をしているのでは
  謀反の疑いあり怪しいという詰問に対して

 ーえ?道や橋なんか領内の交通を便利にするために
  普通にやることじゃないですか。
  もし仮にですよ、謀反するならかえって国境近くの
  交通を断つと思いますが?
  それなのに会津の四方八方から軍ががしがし
  侵入してこられたら防ぎようがないじゃないですか。
  繰り返しますけどそんなしょうもないことは
  うちの大将(景勝)はやりません。

…と、このように、完璧に人を食った文章を書いたというのは死を覚悟した戦略の裏付けがあったものでしょう。

事実、上杉討伐に軍を差し向けた家康率いる東軍を迎え撃つという東国会津への長期遠征の隙をついて、石田三成や宇喜多秀家による西軍が組織され、毛利を総大将として家康を挟み撃ちにするという、古今東西の戦史上も研究対象価値の高い関ヶ原合戦に展開していくのです。

文才と豪胆さで歴史に名を残し、江戸の世になっても堂々と生きて主君すら自領に迎え入れ平然としていた直江兼続という人、この人の文才に少しでもあやかりたいものです。

今後はこの文章スタイルで行きたいと思った筆者からは以上です。

(平成28年8月31日 水曜日)

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