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備中高松城に清水宗治の首塚を訪ねて首を垂れる@2015年新年の旅

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清水宗治 首塚

おはようございます。

2015年1月の記事です。

2015年の年始旅行の続きです。

続きと言いながら時系列順になっておりません点はご容赦下さい。

さて姫路から赤穂を経て向かったのは備中高松城址です。

高松、というと現在ではうどん県がたいへん有名になっておりますが、高松という地名は日本のいたるところにありますので、備中高松、というふうに旧国名と合わせて述べるのが通となっております。

さて戦国時代も末期、この地は西の大将である「両川(りょうせん)」こと小早川家、吉川家を擁する毛利家が東からの備えとして配した清水宗治(しみずむねはる)の居城でして、ここを攻める織田信長軍の精鋭、羽柴秀吉や黒田官兵衛を手こずらせました。

まともに攻めるのは兵の損耗も激しいという官兵衛の策により、古来聞いたことのない未曾有の大作戦である水攻めが行われます。

堤を築いて川から水を引き入れ、城ごと水没させてしまうというスケールの大きな作戦です。

そんな中、京都本願寺にて織田信長討たれるという情報が秀吉側にもたらされ、至急の講和となります。

城主清水宗治の切腹

講和の条件として、備中高松城主である清水宗治の命と引き換えに城の兵士は許すというものでした。

水上に舟を漕ぎ出し、さらりと舞ったのち、潔く腹を切り、介錯人に首をはねられる、とした宗治の一連の作法は見事であり、実際に見た者達の賞賛を受けたのです。


羽柴秀吉も信長の敵討ちのために一刻も早く京へと戻りたいところ、陣から一歩も動かなかったと言われております。

そして、後々の世にも「清水宗治こそ武士の鑑」と絶賛されたのです。

辞世の句です。

「浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」

(平成27年1月13日 火曜日)
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