旅費規定

五十一歳にもなると、出張というものに妙な感慨が混じる。若い頃は、東京出張といえばどこか戦場に向かうような高揚感があった。博多駅から早朝の新幹線に乗り込み、あるいは福岡空港から羽田へ飛び、山手線の混雑に揉まれながら客先へ向かう。それだけで自分が「仕事をしている人間」になった気がした。しかし今は違う。疲労の計算を先にする。何時に起きればよいか、どこで乗り換えるか、ホテルの枕は硬いか、翌朝の胃もたれを避けるには何を食べるべきか。そういうことばかり考える。
そして最近、会社の出張旅費の扱いが変わった。
以前は実費精算だった。ホテル代はいくら、電車代はいくら、新幹線はいくら。領収書をいちいち集め、失くさぬよう封筒に入れ、出張後に総務へ提出する。領収書の文字が薄いだの、日付が違うだの、宿泊税が別建てだの、細かい話で差し戻されることもあった。出張から帰ってきても仕事が終わらない。むしろそこから「精算」という名の事務作業が始まる。
ところが、旅費規程による定額支給を税務上も問題なく損金算入できる運用が広く定着してから、空気が変わった。会社は「東京宿泊出張 一泊いくら」「日当いくら」という形で定額を支給する。実際にいくら使ったかを逐一証明する必要がない。もちろん社内規程として合理性が必要だが、一度制度として固まれば、領収書地獄から解放される。
これは地味だが大きい。
まず会社側が楽になった。経理担当者が大量の紙を確認しなくていい。従業員も、コンビニのレシートみたいな感熱紙を財布に押し込んで汗で滲ませる必要がない。出張帰りの新幹線の中で、「領収書なくしたかもしれん」と青ざめることも減る。
そして面白いのは、ホテル業界の側にも変化が出たことだ。
昔は「一泊一万二千円まで会社負担」というような空気が強かった。するとホテル側も、その上限いっぱいを狙った妙なプランを作る。「QUOカード三千円付き」「ビール券付き」「朝食豪華版付き」など、実質的には宿泊費以外のものを混ぜ込みながら、価格だけは会社の規定上限にぴたり合わせる。出張族もそれを半ばゲームのように探していた。
しかし定額支給になると、話が変わる。
例えば会社から宿泊費として一万五千円出る。だが実際には八千円のビジネスホテルに泊まったとする。差額七千円は手元に残る。領収書で実費を証明する必要がない以上、その差額は従業員側の工夫の結果として扱われる。
すると人間は考える。
東京駅周辺ではなく、少し離れた場所に泊まろうか。浜松町より蒲田のほうが安い。品川より大井町のほうが安い。カプセルホテルまではさすがに身体がきついが、古いビジネスホテルなら十分眠れる。どうせ寝るだけだ。五十一歳のおっさんが、ホテルのデザイン性に金を払う必要はない。
私は先日、神田の古びたホテルに泊まった。部屋は狭い。ユニットバスも窮屈だ。空調の音も少しうるさい。しかし寝ることはできる。朝起きてシャワーを浴び、コンビニのおにぎりを食べ、地下鉄に乗れば仕事は始められる。
その結果、数千円が浮く。
若い頃なら、その金で飲みに行ったかもしれない。だが五十一歳になると違う。子供の学費がある。仕送りもある。大学の授業料は高い。教科書代もかかる。一人暮らしをさせれば家賃もいる。こちらは東京の安ホテルで壁の薄い部屋に泊まり、隣室のいびきを聞きながら寝ているのに、引き落とされる学費の額は容赦がない。
だから差額は消える。
博多へ帰る新幹線の中で、私はスマホの銀行アプリを見ながら、「今月の送金は足りるか」と考える。東京駅で買った千円超えの弁当を棚に戻し、結局コンビニのおにぎり二つで済ませることもある。
だが不思議なもので、その差額を「自分の工夫で生み出した金」だと思うと、少し気持ちが違う。会社に無駄な請求をしている感覚ではない。むしろ、自分で移動コストと宿泊コストを最適化した結果として残った金だという感覚がある。
これはある意味で、市場原理に近い。
高いホテルに泊まりたければ泊まればいい。その代わり手残りは減る。安く済ませれば差額が残る。従業員側に合理化のインセンティブが働く。会社側も予算管理しやすい。経理負担も減る。
もちろん、極端な節約で健康を壊しては意味がない。出張は体力を削る。特に東京出張は歩く。地下鉄の乗り換えだけで疲れる。だから最低限の睡眠環境は必要だ。
それでも、昔のように「規定上限まで使わないと損」という妙な空気が薄れたのは良いことだと思う。
夜、ホテルの小さな机で缶ビールを一本飲みながら、私はそんなことを考える。窓の外には東京の灯りが見える。若い頃は、この街で成功したいと思っていた。今は違う。早く寝て、翌日の仕事を終わらせ、無事に博多へ帰りたいと思う。
そして、少しでも浮かせた出張費を、子供たちの未来に回したいと思うのである。
以上
