ジーコ

【W杯】ブラジル戦を前に、森保監督が「どうしても電話したい人がいる」と言った。その相手は、35年前、敵国ブラジルから来て、すべてを日本に捧げた、一人の男だった。
今、日本中に、緊張が、走っている。
6月30日、深夜2時。
サッカーワールドカップ、決勝トーナメント、一回戦。
相手は、ブラジル。
サッカーの、王様の国だ。
ワールドカップ優勝、5回。
世界で、いちばん多い。
つまり、地球で、いちばん強い相手。
深夜2時という時間にもかかわらず、日本中が、起きて見ようとしている。
その試合を前に。
森保監督が、会見で、少し、不思議なことを言った。
「試合の前に、どうしても、連絡を取りたい人がいる」
世界最強の敵を、目の前にして。
監督が、まっさきに、連絡を取りたい人。
それは、誰だと思いますか。
家族か。
恩師か。
それとも、かつての、名選手か。
どれも、違った。
その相手は、よりによって。
これから戦う敵国・ブラジルから、この国にやってきた、一人の男だった。
ジーコ。
ジーコのことは、知っていた。
小学生の頃、テレビで、よく名前を聞いた。
「サッカーの神様」と、呼ばれていた人。
あとで、日本代表の監督も、やっていた。
だから僕は、この人のことを、知っているつもりでいた。
でも。
ひとつだけ、僕が、まるで知らなかったことがある。
この神様が、どれほどの覚悟で、この国に、来たのか。
それを、僕は、何も、知らなかった。
調べていくうちに、何度も、手が止まった。
まず、ジーコが、どれほどの人か、だ。
ブラジルは、サッカーの王国。
その国に、「ペレ」という、サッカー史上最高と言われた選手がいた。
ジーコは、その「ペレの再来」と呼ばれた男だ。
「白いペレ」。
1982年のワールドカップで、世界中を、魅了した。
ブラジル代表の、ど真ん中にいた、本物のスター。
まさに、世界の、頂点の人だった。
その男が、1991年。
よりによって、日本に、来た。
しかも、当時の日本に、Jリーグは、まだ、なかった。
プロのサッカーリーグが、存在しなかったのだ。
選手は、会社員だった。
昼は工場や事務所で働き、仕事のあとに、ボールを蹴る。
それが、当時の日本サッカーだった。
ジーコが入ったのは、「住友金属」。
製鉄会社の、サッカー部だ。
しかも、一部ですらない。二部。
場所は、茨城県の、鹿島。
人口数万の、地方の町だった。
世界の頂点にいた神様が。
プロもない、極東の、地方都市の、会社のクラブに、来た。
普通なら、こう考える。
過去の名声で、楽に稼ぐための、最後のひと仕事だろう、と。
でも、違った。
ジーコは、来日の理由を、こう語っている。
「サッカーを通じた、町おこしのプロジェクトに、共感した。自分が長年、サッカー界で培ってきた知識や経験が、一からプロ化を進めるチームの、手助けになると考えた」
そして、こうも言った。
「私は、選手としてではなく、指導者として雇われてもいい、と言ったんだ」
わかりますか。
世界の至宝が。
ギャラのためでも、自分のためでもなく。
何もない国に、サッカーを、一から、根づかせるために。
「選手じゃなくてもいい」とまで言って、来たのだ。
最初から、そういう、覚悟だった。
ここからが、僕が、いちばん、胸を打たれたところだ。
まず、選手として。
38歳の神様は、いっさい、手を抜かなかった。
来日した、その年。
日本リーグ二部で、21ゴール。
ぶっちぎりの、得点王に、なった。
そして、1993年。
ついに、日本初のプロリーグ、Jリーグが、開幕する。
その、記念すべき、開幕の試合。
相手は、名古屋。
ジーコは、いきなり、ハットトリックを決めた。
ハットトリックとは、一人で、一試合に、3点取ること。
サッカーでは、めったに起きない、大記録だ。
それを、Jリーグの、いちばん最初の試合で、やってのけた。
記念すべき、Jリーグ第1号の、ハットトリック。
試合は、5対0。
このとき、ジーコ、40歳。
40歳の男が、たった一人で、「サッカーとは、こういうものだ」と。
ピッチの上で、見せて、みせた。
テレビの前の、子どもたちは、息を、のんだ。
次に、ピッチの外で。
ジーコが、この国に植えたのは、ゴールだけじゃない。
当時の選手たちは、練習に、てんでバラバラのウェアで来ていた。
前のチームのお古。
私服に近いもの。
プロになろう、という意識が、まだ、なかったのだ。
ジーコは、それを、見逃さなかった。
赤、白、青。
チームでウェアを統一させ、全員が、毎日、同じ色を着るようにした。
そして、言った。
「プロになっていこうというチームなのだから、みんなが、同じウェアを着て練習しよう。そういうところから、一体感を作っていこう」
たかが、練習着。
されど、練習着。
世界の頂点を知る男は、その、いちばん小さなところから、「プロとは何か」を、叩き込んでいった。
練習。
食事。
準備。
立ち居振る舞い。
そのすべてを、「勝つため」に、正していった。
献身。
誠実。
尊重。
技術ではなく、心の方を。
この国に、植えていった。
ジーコには、譲れない、信念があった。
彼は、こう語っている。
「Jリーグの歴史を振り返るとき、もし、各シーズンに1行ずつしか記載するスペースがなかったら、そこに書かれるのは、優勝チームの名前だけだろう」
勝て。
勝って、歴史に、名を刻め。
その執念を、彼は、この国に、遺した。
そして、監督として。
選手を引退しても、ジーコは、ブラジルに、帰らなかった。
2002年。
彼は、日本代表の、監督になった。
中田英寿。
中村俊輔。
小野伸二。
稲本潤一。
当時、日本史上最高と言われた選手たちを率いて。
「黄金の中盤」と呼ばれたチームを、2006年のワールドカップへ、導いた。
正直に、言う。
その本大会の結果は、振るわなかった。
一次リーグで、敗退。
ジーコは、批判も、浴びた。
でも、彼は、日本を、見限らなかった。
それでも、ずっと、この国のサッカーの、味方で、あり続けた。
最後に、誰を、育てたか。
ジーコが残したのは、自分のプレーだけじゃない。
彼は、地元の子どもたちにも、サッカーを、教えた。
その中にいた、一人の少年が、のちに、鹿島の「10番」を、継ぐことになる。
本山雅志。
日本代表にもなった、鹿島の、レジェンドだ。
ジーコの植えた「献身・誠実・尊重」を継いだ選手は、ほかにもいる。
小笠原満男。
柳沢敦。
曽ヶ端準。
その精神のもとで育った鹿島アントラーズは。
やがて、Jリーグで、最も多くのタイトルを獲る、日本一の常勝クラブになった。
一人の少年だけじゃない。
一つのクラブだけじゃない。
ジーコは、この国のサッカーそのものを、丸ごと、底上げした。
1994年。
日本は、彼に、「内閣総理大臣顕彰」を、贈っている。
国が、その功績をたたえる、特別な賞だ。
外国人で、この賞を受けたのは。
今も、ジーコ、ただ一人だ。
ジーコは、のちに、こう言った。
「サッカーは、すでに、日本文化の一部だ」
何もなかったこの国に、それを、根づかせた本人の、言葉だ。
そして彼は、こうも言っている。
「鹿島との出会いが、私のサッカー人生を、本当に豊かにしてくれた」
与えるだけ、与えて。
最後には、「自分の人生が、豊かになった」と、頭を下げる。
そういう、人なのだ。
彼は今も、鹿島のアドバイザーを務めている。
35年。
この国に、尽くし続けている。
だから、あの一言だった。
森保監督は、会見で、こう言っていた。
「82年のワールドカップで、ジーコさんは、私のヒーローでした」
「そのジーコさんと、プレイヤーとして、日本で試合をすることができました」
テレビの中にいた、世界のヒーロー。
その人に憧れた一人の少年が、その人と、同じピッチに立ち。
今、日本代表の、監督になっている。
そして、2026年。
あの、サッカーも知られていなかった国が。
ワールドカップ優勝5回の、世界最強・ブラジルと。
トーナメントで、ぶつかる。
考えてみてほしい。
これは、ただの、一試合じゃない。
すべての名声を、捨てて。
この国に来て、35年、すべてを、与えてくれた、一人のブラジル人。
その人に、サッカーを教わった国が。
育って、育って。
今、その人の、母国に、本気で、挑むのだ。
その大一番を前に、森保監督は、言った。
「ジーコさんに、連絡を取りたい」
僕は、ここで、ようやく、わかった気がした。
これは、ただの、挨拶じゃない。
育ててくれた人に。
「あなたが、すべてを捨てて来てくれたこの国は、ここまで来ました」と。
そして。
「明日、あなたの国を、本気で、倒しにいきます」と。
それを、伝えたいのだ。
恩は、お礼の言葉だけじゃ、返せない。
本当の恩返しは、たぶん、こうだ。
教わったことを、自分のものにして。
育ててくれた、その人に、本気の姿を、見せること。
時には、その人を、超えに、いくこと。
恩は、頭を下げることじゃなく、本気でぶつかることでしか、返せない。
神様への、最高の恩返しは、「ありがとう」じゃない。
「本気で、倒しにいく」ことなのだ。
6月30日、深夜2時。
日本は、恩人の、国に、挑む。
35年前、すべてを捨ててこの国に来た神様が蒔いた種が、どこまで育ったか。
その答え合わせを、どうか、見届けてほしい。
最後に一つ質問。
あなたを、育ててくれた人は、誰ですか。
その人に、「ここまで来ました」と、最近、伝えましたか。
恩は、本気でぶつかることでしか、返せない。
それでは、また。
6月30日、深夜2時に。
文・峯山政宏

