孫子の兵法

「優秀なのに、課長やマネージャーで出世が止まってしまう人」と「突出した天才ではないのに、なぜか役員まで上り詰める人」。ビジネス社会において誰もが一度は目にするこの不可解な現象の本質を、見事に射抜きます。

「役員は能力ではなく『敵の少なさ』で選ばれている」という命題をさらに深掘りし、組織論、心理学、そしてリスクマネジメントの視点から、なぜ「無敵(敵を作らないこと)」が究極の出世戦略となるのかを説得的に論じます。

1. 職位によって変化する「能力」の定義

多くのビジネスパーソンが陥る罠は、「プレイヤーとしての有能さ」と「経営者(役員)としての有能さ」を同一視してしまうことにあります。

  • 課長・マネージャー層(戦術レベル): 個人の実務能力や、目の前のプロジェクトを完遂する「正しさ」が武器になります。高い専門性や、論理的に相手を論破する力が成果に直結しやすい領域です。例えの言葉を借りれば、ここは「能力という名の入口の切符」が有効な世界です。
  • 役員・経営層(戦略・統治レベル): この領域における最大の任務は、組織全体の方向性を決め、多様な利害関係者を調整し、集団を機能させることです。ここでは、個人の実務能力よりも「他者を巻き込む力」や「組織の遠心力を抑える力」が求められます。

どれほど打率の高い強打者であっても、チームの調和を乱し、周囲のモチベーションを削ぎ落とす人物であれば、監督(経営陣)は彼をキャプテン(役員)には据えません。組織が大きくなればなるほど、個人の「足し算の有能さ」よりも、周囲に与える「引き算の悪影響(敵を作ること)」のダメージの方が遥かに大きくなるからです。

2. なぜ「敵の少なさ」が最後の椅子を決めるのか

私たちの世界では、最後の椅子に残るのは「あいつが上に行くなら、まあいいか」と周囲に思われる人、すなわち「心理的安全性をもたらす人」であると言われます。これを組織論的に深掘りすると、2つの決定的な理由が行き着きます。

① 組織のレジリエンス(復元力)の担保

組織が苦境に陥ったとき、感情的に機嫌を損ねず、失敗を人のせいにしないリーダーの下には自然と正確な情報が集まります。逆に、「正しさで人を追い詰める」タイプのリーダーの下では、部下は保身のためにミスを隠蔽し、周囲は非協力的になります。 「この人が上なら、自分は潰されない」という安心感は、組織の風通しを良くし、危機に強いしなやかな組織を作るための必須条件なのです。

② 「足を引っ張られない」という最大のリスクヘッジ

どれほど優秀な提案であっても、社内に強力な「敵」がいれば、重箱の隅をつつくような反論や、水面下でのボイコットによって頓挫します。 役員というポジションは、常に全社的な意思決定を行うため、社内外からの嫉妬や批判に晒されやすい立場です。その際、最初から「敵が少ない」人物であれば、決定に対する摩擦コスト(社内政治的な抵抗)を最小限に抑えることができます。つまり、敵を作らないことは、経営における「最大のコストカット」であり「最大のリスクヘッジ」なのです。

3. 「仕事に厳しいだけ」という自己欺瞞の病理

かかる指摘の中で最も痛烈なのは、無自覚に敵を増やしている人が、本人の中では「自分は仕事に厳しいだけだ」「成果のために正論を言っているだけだ」と正当化している点です。

これは心理学でいう「客観性の錯覚」や「自己サービングバイアス」の一種です。 会議で相手の面子を潰したり、忙しいときに不機嫌を撒き散らしたりする行為は、決して「仕事への厳しさ」ではありません。自分の感情をコントロールできない「未熟さ」であり、正論という武器を使って優位に立ちたいという「自己顕示欲」の表れに過ぎません。

勝たなくていい相手にまで勝とうとする人は、目先の小さな「論理的勝利」と引き換えに、将来の「大局的な協力者」という資産をドブに捨てています。周りの人間はその痛みをしっかりと覚えており、「あの人の下では働きたくない」という静かなノー(拒絶)を突きつけるのです。

4. 結論:「無敵」という究極の生存戦略

古代中国の哲学者・老子は「上善如水(最高の善は水のようである)」と説き、水は万物に恵みを与えながらも、決して他と争わず、誰もが嫌がる低い場所に身を置くからこそ、究極の強さを持つとしました。

現代のビジネス社会における役員への昇進レースも、これと全く同じです。「無敵」とは、誰よりも強いという意味ではなく、「敵が無い」という意味です。孫子の兵法にも通じます。敵を知ること。

我々経営支援事業者が提案する「週に一度、自分は誰の敵になったか、それは本当に必要な敵だったかを振り返る」という内省の習慣は、キャリアの天井を突き破るための最も地味で、最も強力な処方箋です。

能力はあなたをスタートラインに立たせてくれますが、あなたをゴールへ押し上げるのは、あなたを支える周囲の「安心感」と「信頼」に他なりません。能力の高さに溺れず、常に謙虚に「敵を作らない配慮」ができる人こそが、最終的に組織の頂点で周囲に担ぎ上げられる真のリーダーなのです。

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