熊襲

熊襲の熊をコマ=高麗と解釈するべき根拠

 熊襲は「クマ」と「ソ」に分けるのが正しい。

 奈良および平安時代の文献ですが、曾君細麻呂(和銅3年(710年)、曾乃君多理志佐(曾乃君多利志佐)(天平13年(741年)、曾公足麿(神護景雲3年(769年)、曾乃君牛養(延暦12年(793年)など「曾」のリーダーがいました。「曾」のリーダーがいたことは「曾」部族、曾人の存在を推測させます。ちなみに宮中で古くから韓神と園神を祀っているそうですが、園神は新羅の神です。

 景行記では「襲国」つまり「曾」の国に言及していますが、それは4世紀の景行王の時代に「襲国」があったということではなく、日本書紀編纂時に「襲国」があったことを示すものです。「ソ」の君、「ソ」の国があったことは確実であり、一方、熊県、肥(クマ)君などの存在から「クマ」人がいたことも確実です。

 熊=コマ=高麗である根拠を以下、列挙しました。

1 装飾古墳は馬や船の絵が非常に多く、馬を連れて海を渡ってきた高麗の武人集団の墓である可能性が高いと思います。わずかですが四神図、月を表すヒキガエルの図、北斗七星を描いた星宿図(王塚古墳の星宿図は平壌の真坡里4号墳の星宿図とそっくりです)が描かれています。

2 横穴式石室の出現  5世紀初頭から前半に横穴式石室が北九州に出現します。学説は半島の影響で横穴式石室が出現したであろうなどと言っていますが、それ以上、掘り下げていません。5世紀初頭までに朝鮮半島で横穴式石室の文化をもっていたのは高句麗だけであったこと、倭国の初期横穴式石室の石壁は持送り技法が用いられていますが、それは高句麗の横穴式石室の特徴であることを考えれば、明らかに高句麗の影響を受けています。

 問題はなぜ高句麗の影響が5世紀初頭に現れたのかということです。404年、407年には倭国は高句麗と戦争して敗北しています。そうした状況の中でなぜ5世紀になる倭国に高句麗の墓制が現れるのでしょうか。

3 石人・石馬が5世紀から出現しています(八女市を中心に)。石人・石馬が4世紀の倭人の発想とは考え難いものがあります。箱式石棺は弥生時代からありましたが、くりぬき型の石棺などは石文化を持つ高句麗人の発想によるものと考えられ、同様に墓の前に石像を立てるのは半島人の伝統です。

4 石人・石馬を持つ古墳群に近いところ(熊本県玉名郡和水町)にあるトンカラリンと呼ばれる謎のトンネルは高句麗人の祭祀施設の可能性が高い(松本清張説)。

5 熊本県は火の国とか、肥の国と呼ばれていました。コマ(もしくはクマ)は二字で球磨、高麗、巨摩、一字では隅、狛を充てられていますが、すべて当て字です。肥という漢字は半島系の発音でコウムと発音され、ウの音が弱く、コマと聞こえます。5世紀当初、コマに肥という漢字をあてていたのです。

 その後、6世紀ごろ、肥という漢字が用いられた意味がよく分からなくなったようです。クマという発音と肥という漢字が合わないことが意識され始めました。そして肥という漢字を「ヒ」と読みだしたころ、肥という漢字の代わりに火という漢字が用いられるようになり、さらに7世紀ごろ、再び何らかの理由で肥が用いられたようです。(金思燁『トンカラ・リンと狗奴国の謎』)。経緯は多少違って肥国と火国が併用されていた可能性も十分あります。

「いつごろ」「どのような経緯で」大勢の高麗人が来たのか、それをうまく説明できなかったために熊=コマ=高麗説の支持者は多くはありませんでした。しかし、5世紀初頭に広開土王が大勢の高麗人を連れて倭国にきたという仮説を認めれば、熊=コマ=高麗説が正しいと言えることになります。

6 雄略期にヤマト王権は九州では水沼の君が治めていた久留米地方、および江田船山古墳のある肥後最北地方までを版図としたようですが、それ以南には侵攻した様子は見受けられません。それは肥後には高麗人の豪族が分散しており、崩すことができなかったからだと思います。そうでなければ容易に南進したはずです。6世紀初頭に筑紫君磐井が勢力を持ちますが、磐井は高麗系で、雄略の侵攻した領域を奪回したのでしょう。そして磐井の乱は九州の高麗勢力とヤマト王権の覇権争いという側面があったと考えられます。

7 熊本市和水町の江田船山古墳からは画像鏡、画文帯対置式神獣鏡、画文帯同向式神獣鏡、細線式獣帯鏡、画文帯環状乳神獣鏡など6面の銅鏡が出土しています。その理由は仁徳=広開土王の使者が413年に東晋に朝貢しているからです。朝貢に際して東晋から下賜されたものの中に画文帯神獣鏡が多くあったようです。高麗王=仁徳は九州の配下の高麗の武将にそれを下賜したと私は推測しています。