なんとかラテ

画像内のSNS投稿(某氏による『優等生ほど売られる〜「スタバ日本法人」親会社の事情』)は、非常に鋭く、かつ現代の資本主義の歪みを突いた面白い視点です。
「日本で大儲けしている優等生な子供(日本法人)が、アメリカでやらかした親(米本社)の借金返済のために身売りされる」という、まるで令和の時代劇か落語のような悲喜劇。この「よくできた不条理劇」をベースに、さらにユーモアと風刺(ウィット)を効かせた、読み物(コラム記事)です。
緑の例の立ち飲みカフェで「なんとかチーノ」を片手に、あるいは緑茶でも白湯でもすすりながら、お楽しみください。
令和版・スタバ身売り悲喜劇:親の因果が子に報う「サードプレイス」の世知辛い裏事情
序章:田舎のイオンモールに現れた「緑の魔女」
日本の地方都市にあるショッピングモールを歩けば、必ずと言っていいほど視界に飛び込んでくる、あの緑色の円形ロゴ。人魚(セイレン)の皮肉な微笑みに吸い寄せられるように、若者たちが列をなしている。彼ら、彼女らが金色の液体――いや、「フラペチーノ」とかいう、名前を噛みそうな呪文のような飲み物を嬉々として持ち歩く姿は、いまや日本の原風景の一部だ。なんとかラテとかとも呼ばれる。乳製分多めの、あのどろどろの茶色い液体。
「一杯で、スーパーのうな丼が買えるじゃないか」
そんな風に財布の紐を固く結び直す、冷静(あるいは頑固)な大人たちの視線を浴びながらも、彼らは颯爽と歩く。売っているのはコーヒーではない。あのスタイリッシュな空間であり、macbookを開いて「仕事ができる風」を演出するための「時間」なのだから。
しかし、そんな日本の平和な日常の裏で、とんでもない「家庭内ドタバタ劇」が進行しているのをご存知だろうか。
ニュースの主役は、泣く子も黙るシアトル発の巨人、スターバックス。なんと、業績絶好調で日本のショッピングモールを席巻している「日本法人」の株式が、売却の危機に瀕しているというのだ。
理由は「日本で売れていないから」ではない。全くの逆。「日本でアホみたいに儲かっているから」である。アホらし。
ここに、現代資本主義が産み落とした、最高にブラックで、最高にコミカルな「悲喜劇」の幕が上がる。
第一幕:出来損ないの親と、働き者の優等生
事の真相はこうだ。 本家アメリカのスターバックス総本山は、いま、激しい経営の暴風雨に晒されている。客足は遠のき、株価は低迷し、お財布事情は火の車。そこでアメリカの親分が目をつけたのが、遥か東の島国で、健気に、そして完璧に利益を叩き出し続けている「日本法人」という名の優等生だった。
「おい、日本のせがれよ。お前、最近ずいぶん小遣いを溜め込んでいるらしいじゃないか。ちょっとそれをよこせ。親父の借金を返すから」
まさに、時代劇で博打に狂った父親が、吉原に働き者の娘を売り飛ばすアレである。あるいは、ろくでもない放蕩息子(この場合は放蕩親)のために、真面目な長女が身を粉にして働き、最終的にその稼ぎをすべて巻き上げられるメロドラマ。ヤングケアラーかよ!
私たちが「ちょっとリッチな日常」を味わうために支払った、あの「なんとかチーノ」の代金は、日本の店舗のサービス向上や、日本のスタッフの給料に還元される前に、太平洋をどんぶらここと渡り、アメリカ本社の「穴埋め」に使われるというのだ。これほど哀愁漂うビジネスモデルが、かつてあっただろうか。
第二幕:なぜシアトルの王者は「神話」を失ったのか?
では、なぜ本家アメリカの親分は、ここまで落ちぶれてしまったのか。理由は、彼らが掲げた「サードプレイス(第3の利心地の良い場所)」という綺麗事のツケが、一回に回ってきたからに他ならない。
問題の本質は2つある。
1. 「ただのコーヒー」にうな丼の価値を求め始めた傲慢
まず、単純に「高すぎる」のだ。 アメリカのインフレも手伝って、いまや向こうでスタバの「なんとかラテ」とちょっとした軽食(クッキーやマフィン)を頼めば、あっという間にランチ一回分、いや、ちょっとしたディナー並みの金額が吹っ飛ぶ。 かつては「マクドナルドよりはオシャレで、高級ホテルよりはカジュアル」という絶妙なポジションにいたはずが、気づけば「富裕層の贅沢品」の領域に片足を突っ込んでしまった。人間、いくら雰囲気が良くても、毎日「うな丼」と同じ価格の泥水(失礼、コーヒーである)を飲み続けるわけにはいかない。鰻丼食うだろ。
2. リベラルの象徴という名の「踏み絵」
もう一つの理由は、スタバがまといすぎた「政治の色」だ。 シアトル発祥のスターバックスは、多様性や環境問題に配慮する「意識高い系(リベラル)」の急先鋒として君臨してきた。しかし、アメリカの政治分断が極限に達した結果、そのブランドイメージ自体が「格差の象徴」として叩かれる羽目になった。 トランプ支持層や保守派からは「インテリ気取りの鼻持ちならない店」と嫌われ、一方で左派からは「口先だけで労働者を搾取している」と労働組合問題で突っ込まれる。右からも左からも石を投げられるサードプレイスなど、もはや「憩いの場」ではなく「戦場」である。修羅場か。
かつて「空間を売る」と言ったスタバは、いつの間にか「政治的スタンスという踏み絵」を客に迫る場所になってしまったのだ。そんなとこ行かねえよ。
第三幕:政治に無縁な島国で、ガラパゴス的進化を遂げた幸せ
翻って、我が日本はどうだろう。 アメリカでのドロドロとした政治論争など、日本のショッピングモールにいる女子高生やカップルには「どこ吹く風」である。
日本においてスタバは、政治的メッセージの道具ではなく、純粋に「ちょっと背伸びをすれば届く、1時間だけのシンデレラ体験」を提供する装置として、完璧にローカライズされた。 期間限定の「サクラ・フラペチーノ」や「抹茶・ナニガシ」が発表されるたび、SNSはまるでお祭りのように沸き立つ。アメリカの労働問題がどうなろうと、トランプ氏が何を言おうと、「新作のクリームが美味しいからオッケー!」という、圧倒的なまでの平和がここにはある。私の娘も行ってる。
この「政治的無色透明さ」と「高いクオリティへの信頼」こそが、日本法人の大成功の理由だ。しかし皮肉なことに、その完璧すぎる優等生ぶりが、アメリカの親の「身売りリスト」の最上位に名前を連ねる原因になってしまったのだから、人生(あるいは会社経営)とは分からないものである。
結び:身売りされる優等生の未来、そして私たちは
さて、この悲喜劇の結末はどうなるのだろうか。 日本法人の株がどこか別の資本に売却されたとしても、明日から急に「なんとかチーノ」の味が変わるわけではないだろう。田舎のイオンのスタバは、今週末も変わらず若者たちでごった返すはずだ。
しかし、私たちは知ってしまった。 自分が手にする、あの緑色のカップの底には、海を渡った向こう側で頭を抱えている「アメリカの親父の借用書」が透けて見えているということを。
「私はスタバには行かないから関係ないよ」と笑う、件のSNS投稿主の言葉には、一種の達観したユーモアがある。確かに、この資本主義の不条理なドラマに巻き込まれずに、地元の純喫茶で渋いマスターが淹れる500円のブレンドコーヒーを飲んでいる方が、よほど精神衛生上よろしいのかもしれない。そっちの店なら、売上はちゃんとマスターの明日の生活費と、美味しい豆の仕入れ値に消えるのだから。
出来のいい子供が、親の身勝手で売られていく。 私たちはこれからも、その「悲劇のヒロイン(日本法人)」が差し出す、最高に甘くて、最高に高いフラペチーノを、少しの同情の念とともに、美味しくすすることになりそうだ。
「頑張れ、スタバ日本法人。君の稼いだその1000円は、今日もシアトルの胃薬代に変わるのだから」
ひどい。

