教育係…

画像にあるThreadsのスクリーンショットでは、「初任給35万円の新卒の教育係を、16年目で38万円の自分がやるわけがない」「27万の新人を、5年目で23万8千円の自分が教育していた。バカらしくて辞めた」といった、「長年働いているのに、新しく入ってきた新卒・新人の方が自分と大差ない(あるいは自分より高い)給与をもらっている」という、歪んだ「賃金格差」に対する悲哀と怒りが語られています。
この、現代社会が抱える滑稽で、切実で、どこか「アホらしい」格差の構造をテーマに、冷徹かつユーモラスな視点で描く随筆を執筆しました。約2700字のボリュームでお届けします。
随筆:後輩の財布と、私の「お下がり」
1. 割り切れない「3万円」の断層
先日、スマートフォンの画面をぼんやりとスクロールしていたら、あるSNSの書き込みが目に留まった。 「初任給35万円の新卒の教育係?やるわけないじゃないですか、わたし16年目で38万円ですよ?」 さらにその下には、別の誰かの嘆きがぶら下がっている。 「うちは27万の新人を、5年目で23万8千円のわたしが教育してました。同じ資格保持者、新人経験年数0年、わたし5年。バカらしくて辞めました」
私は思わず、手元に置いてあったぬるい緑茶を一口すすり、天井を見上げた。そして、己の胸裏にある「引き出し」をそっと開けてみたくなった。そこには、かつて私自身が味わった、あのなんとも言えぬ「割り切れなさ」が、埃をかぶって眠っているはずだからだ。
「格差」という言葉は、大仰な社会科学の用語として語られることが多い。ジニ係数だの、資本論だの、ピケティだの、難しげな数式やグラフを持ち出して、インテリたちがテレビの画面で眉間に皺を寄せている。しかし、我々が日常で直面する「格差」の正体は、そんな高尚な学問のなかにではない。もっとじっとりとした、生活のすぐそばにある「アホらしさ」の中に潜んでいる。
たとえば、自分が16年間、あるいは5年間、雨の日も風の日も、上司の理不尽な説教に耐え、胃を痛めながら築き上げてきた「歴史」が、昨日入ってきたばかりの、まだ名刺の渡し方すらおぼつかない若者の「初期値」によって、あっさりと追い抜かれ、あるいは肉薄されていると知った瞬間の、あの乾いた笑い。 これこそが、現代における「格差」の最もリアルな手触りではないだろうか。
16年勤めて38万円。新卒が35万円。その差、わずか3万円である。 16年という歳月を日数に換算すれば、およそ5840日。その長い旅路の果てにたどり着いた地平が、生まれたての雛鳥が最初に手にする餌皿とたった3万円しか違わないという事実。この「1年あたり約1875円の価値」という冷酷な割り算の前に、人はどのような顔をすればいいのだろう。教育係を任された先輩が「やるわけがない」とへそを曲げるのは、怠慢でも意地悪でもない。それは、崩壊しかけた自尊心を死守するための、極めてまっとうな「生存本能」としての防衛反応なのだ。
2. 「市場価値」という名の免罪符
なぜ、こんなアホらしい逆転現象が起きるのか。企業の偉い人たちや、経済の専門家は、決まってこう言う。 「人手不足だから、初任給を上げないと優秀な若い人材が採れない。これは市場原理だ」 なるほど、実にもっともらしい言い訳だ。需要と供給のバランス。水が高いところから低いところへ流れるように、労働力という商品を買い叩くためには、入り口の価格を上げざるを得ないという理屈である。
しかし、その「市場原理」という大義名分の影で、既存の社員たちの給与は据え置かれる。新しく入ってくる客(新卒)には豪華なウェルカムドリンクと特等席を用意する一方で、長年店を支えてくれた常連客(ベテラン)には「いつもの席で、冷めた番茶でも飲んでいてくれ」と言わんばかりの態度をとる。これが今の日本の、多くの組織の姿だ。
かつて日本型雇用が機能していた時代には、不文律の「約束」があった。 「今は安月給だけど、長く勤めれば確実に上がっていくから。だから今は我慢して、新人の面倒を見てくれ」 この「未来の約束」という担保があったからこそ、先輩たちは無給の優しさ、あるいは義務感で、新人に仕事を叩き込んだ。手取り足取り教え、失敗の尻を拭い、時には居酒屋で愚痴を聞いた。それは、自分自身もそうやって育てられ、そして将来、自分がその恩恵にあずかるという「世代間の互助レース」が信じられていたからだ。
ところが、ゲームのルールは途中で勝手に書き換えられた。 「これからは実力主義です。でも、長年いる人の基本給はそう簡単に上げられません。あ、でも新人は高い給料で入れないと来てくれないので、そこはよろしく」 こんな身勝手なルール変更を押し付けられて、「はい、喜んで教育します!」と言える人間がいたら、それは聖人君子か、あるいは思考を放棄したマシーンのどちらかだろう。
5年目で23万8千円の先輩が、27万円の新人に対して優しく「これはね、こうやるのよ」と教える図。これはもう、悲劇を通り越して喜劇である。 新人は先輩を見ながらこう思うかもしれない。 「この先輩、5年もいて自分より給料が低いのか。要領が悪いのかな」 先輩は新人を見ながらこう思う。 「この子、私より高い給料もらってるんだよね。なんで私がこの子のミスをカバーしなきゃいけないんだろう」 この二人の間に、健全な信頼関係や、技術の伝承などが生まれるはずがない。そこにあるのは、見えない壁と、お互いに対する冷ややかな視線だけだ。
3. 格差がもたらす「静かなるサボタージュ」
面白いことに、このようなアホらしい格差に直面した労働者たちがとる行動は、暴動でもストライキでもない。「静かなるサボタージュ(Quiet Quitting)」、あるいは「退職」という、極めて静かで、かつ致命的な手段である。
上記の「バカらしくて辞めました」という言葉には、一切の迷いがない。怒りが頂点に達し、それを通り越して、すーっと冷めていくような感覚。 「あ、私、ここにいる意味ないわ」 そう気づいた瞬間、人は驚くほどあっさりと席を立つ。
残された企業は、なぜ人が定着しないのかと首を傾げる。 「新卒の初任給を35万まで上げたのに、なぜか3年目でみんな辞めていく。教育係の先輩たちのモチベーションも低い。やはり、今の若者は打たれ弱いのだろうか。それとも中堅社員のマネジメント能力が不足しているのだろうか」 的外れもいいところだ。原因は、若者のメンタルでも中堅の能力不足でもない。あなたがたが作った「格差の設計図」が、あまりにもアホらしく、お粗末だからに他ならない。
新人より安い給料で働く先輩に、新人の教育という「責任」を背負わせる。これは、コストの踏み倒しであり、感情労働の搾取である。 もし本当に市場価値に基づいて新人の給与を決めるのであれば、その新人をプロフェッショナルに育てるための「教育能力」を持つ先輩の給与は、その何倍にも跳ね上がっていなければ、論理的につじつまが合わない。新人を1人前に育てるという仕事は、単に自分の業務をこなすことよりも、はるかに高度で、エネルギーを消費する作業なのだから。
それを、「先輩なんだからやって当然」という、かつての昭和的・情緒的な家族主義の価値観で片付けようとする。給与体系は「冷徹な市場主義」で決め、現場の負担は「温かい精神論」で処理しようとする。この、都合のいいダブルスタンダードこそが、現場を疲弊させ、日本の労働生産性とやらを地の底まで引き下げている真犯人ではないか。
4. アホらしさの先にある、我々の生存戦略
私たちは、この「アホらしい格差」と、どう向き合っていけばいいのだろう。 一つの答えは、あの「バカらしくて辞めました」という潔い決断にある。おかしなゲームの盤上からは、さっさと降りるに限る。自分の価値を正当に評価しない場所で、他人のために自分の時間と精神を切り売りする必要など、これっぽっちもない。
もう一つの道は、徹底的な「等価交換」の姿勢を貫くことだ。 もらう給与の分だけ働く。38万円の給料であれば、38万円分の仕事だけをする。そこには、新卒の教育という「オプションプラン」は含まれていない。もし教育をしてほしいのであれば、月額5万円の「教育手当」を上乗せするか、基本給を45万円に改定せよ、と、静かに交渉のテーブルに書類を突きつける。
もちろん、そんな交渉が簡単に通るほど、世の組織は甘くない。しかし、我々が「物分かりの良い先輩」を演じ続ける限り、このアホらしい構造が変わることは絶対にない。
私は今日も、画面の向こうの16年目の先輩と、5年目の先輩に、心の中でそっと拍手を送る。 彼らが声を上げ、あるいは静かに去っていったことは、決して「わがまま」などではない。それは、労働という営みが持つべき最低限の「尊厳」を取り戻すための、小さくも偉大な一歩なのだ。
窓の外では、今日も新しいリクルートスーツに身を包んだ若者たちが、希望と不安を胸に街を歩いている。彼らが高待遇で迎えられること自体は、喜ばしいことだ。しかし、彼らを迎えるオフィスの中で、死んだ魚のような目をした先輩たちが、冷めたお茶をすすりながら「お前の給料、俺より高いんだろ?」と心の中で毒づいているのだとしたら、その職場の未来は、いささか暗いと言わざるを得ない。
格差とは、単に数字の差ではない。それは、人と人との間に横たわる、最もアホらしく、そして最も深い「信頼の溝」のことなのだ。
教育係ってなんだろう…
