痴漢冤罪
最高裁判所が電車内での痴漢事件(当時の強制わいせつ罪)について、1・2審の有罪判決を破棄して逆転無罪(破棄自判)を言い渡した最も著名なリーディングケースは、最高裁平成21年4月14日第三小法廷判決(刑集63巻4号331頁/いわゆる「防衛医大教授痴漢冤罪事件」)です。
1. 事案の概要と訴訟の経過
- 事案: 2006年(平成18年)、小田急線(向ヶ丘遊園駅から下北沢駅間)の朝の満員電車内で、防衛医科大学校教授であった被告人が、前に立っていた女子高生(被害者A)のスカートや下着の中に手を入れて臀部等を触ったとして、強制わいせつ罪で起訴された事案です。
- 争点: 被告人は逮捕段階から一貫して犯行を全面否認。被告人の手指から被害者の着衣の繊維が検出されない(繊維鑑定の結果が陰性)など客観的証拠が存在しない中、被害者Aの供述の信用性のみによって有罪と認定できるかが争われました。
- 経過:
- 第一審(東京地裁)・控訴審(東京高裁): 被害者Aの供述は具体的で迫真性があり信用できるとして、懲役1年10月の実刑判決を言い渡しました。
- 上告審(最高裁第三小法廷): 裁判官5名中3名の多数意見により、原判決および第一審判決を破棄し、無罪を自判しました(刑事訴訟法411条3号、413条ただし書)。
2. 最高裁判決の要旨・判断枠組み
最高裁は、上告審における事実誤認の審査について「原判決の認定が論理則、経験則等に照らして不合理かどうかの観点から行うべき」とした上で、満員電車内の痴漢事件における証拠評価の基準を示しました。
① 特に慎重な信用性判断が求められる前提事情
以下の3つの事情が揃っている場合、被害者供述の信用性判断は特に慎重に行う必要があると判示しました。
- 被告人が一貫して犯行を否認していること
- 被害者の供述以外に犯行を基礎付ける客観的証拠がないこと
- 被告人にこの種の犯行を行う性向もうかがわれないこと(社会的地位や前科・前歴の不存在など)
② 被害者供述の信用性を揺るがす3つの疑問点
多数意見は、以下の点から被害者供述の信用性には合理的な疑いが残ると結論付けました。
- 客観的証拠(繊維鑑定)との不整合: 被害者の供述によれば、約10分以上にわたりガードルやストッキングをずらして直接肌や下着に触れ続けたとされるにもかかわらず、直後に採取された被告人の手指の付着物から被害者の着衣の繊維片が一切検出されなかった点は、犯行態様と整合しない。
- 被害状況・回避行動に関する不自然さ: 約15分間の乗車中、途中駅(登戸駅・成城学園前駅)で相当数の乗客の乗り降りがあり、体勢を変えたり場所を移動したりする機会があったにもかかわらず、何らの回避行動もとらず被害を受け続けたという供述には不自然な点がある。
- 満員電車内における犯人識別の危うさ: 混雑した車内では周囲の乗客と身体が密着しており、被害者が犯人の手を取り違えたり、被告人の自然な手の動きを痴漢行為によるものと誤認・推測したりした可能性を排斥できない。
3. 多数意見(無罪)と反対意見(有罪)の対立構造
本判決は3対2の僅差で無罪となった点でも注目されました。裁判官の出身母体(バックグラウンド)を超えて意見が分かれた点も特徴的です。 立場裁判官(出身母体)主な論旨・経験則の適用 多数意見(無罪)藤田宙靖(学者) 那須弘平(弁護士) 近藤崇晴(裁判官)客観的裏付けを欠く中で、供述の不自然な点や繊維鑑定の陰性結果を軽視すべきではなく、「疑わしきは被告人の利益に」の原則から合理的な疑いが残る。 反対意見(有罪)田原睦夫(弁護士・裁判長) 堀籠幸男(裁判官)若い女性が羞恥心や恐怖心から車内で即座に声を上げたり逃げたりできないことは経験則上不自然ではない。着衣の素材や触れ方によっては繊維が付着しないことも十分にあり、被告人の腕を直接つかんで確保した識別供述の信用性は高い。
4. 刑事実務および事実認定における意義
- 「被害者供述偏重」への警鐘: 密室や満員電車内で発生する性犯罪・痴漢事件では、目撃者や防犯カメラ映像が存在しないケースが多く、従来は「被害者が虚偽を述べる動機がない」という理由から被害者供述の信用性が安易に肯定される傾向がありました。本判決は、動機の有無だけでなく、供述内容自体の合理性や客観的証拠(微物鑑定など)との整合性を厳密に審査すべきことを明確にしました。
- 科学捜査(微物鑑定・DNA鑑定)の重視: 本判決以降、痴漢・不同意わいせつ事件の捜査および公判において、被害者の衣服の繊維が被疑者の手指に付着しているか(繊維鑑定)、あるいは被疑者の皮膚片・DNAが被害者の衣服や身体から検出されるか(タッチDNA鑑定)といった客観的・科学的証拠の有無が、起訴・不起訴の判断や事実認定において決定的な重みを持つようになっています。
その通りです。事件が発生したのは2006年(平成18年)4月18日の朝で、まさに同月(4月1日付)に防衛医科大学校の助教授から教授(国語・国文学担当)へ昇任した直後(約2週間半後)のタイミングでした。
(※なお、学校教育法改正により「助教授」の職名が「准教授」に変更されたのは翌年の2007年4月1日であるため、事件当時の正式な職名は「助教授」からの昇任です。)
この「教授昇任直後であったこと」は、単なる背景事情にとどまらず、裁判の事実認定においても以下のような文脈で重要な意味を持っていました。
- 犯行動機・性向の不存在(無罪方向のの間接事実): 最高裁の多数意見が「特に慎重な判断を要する前提事情」の一つとして挙げた「被告人にこの種の犯行を行う性向もうかがわれないこと」の背景には、長年勤め上げて念願の教授に昇任したばかりの時期に、社会的地位やキャリアを一瞬で失うリスクを冒してまで朝の通勤電車内で無謀な犯行に及ぶ理由は見当たらない、という事情がありました。
- 否認を貫いたことによる過酷な身体拘束と処分: 教授に昇任した矢先に現行犯逮捕され、一貫して無実を訴えたことから「罪証隠滅のおそれがある」として約30日間にわたり勾留されました。起訴後に休職処分となり、1・2審の実刑判決を経て、2009年4月の最高裁逆転無罪判決によって約3年ぶりに教授へ復職しています。

