地獄からの使者

みずほ統合プロジェクト
みずほフィナンシャルグループの大規模システム統合は、日本企業における巨大組織統合の象徴的事例として語られることが多い。筆者は、その現場で地獄を見た。そこには、単なる技術的困難ではなく、日本型組織の病理、人間の責任回避、そして「不合理に合わせ続けた結果としての崩壊」が存在していた。
みずほの統合は、第一勧業銀行・富士銀行・日本興業銀行という三行統合を背景としていた。しかし、問題は銀行が統合されたことではない。問題は、統合されたにもかかわらず、意思決定と責任体系が統合されなかったことである。各銀行の文化、派閥、システム、取引先、面子が温存され、その結果として「誰も本当には決めない巨大組織」が誕生した。
筆者が目撃したのは、その歪みが末端の現場に押し寄せる光景であった。
本来、システム統合とは、業務を整理し、不要なものを捨て、責任構造を単純化する作業である。しかし現実には逆が起きた。「あの銀行の仕様も残せ」「こちらの取引先にも配慮しろ」「例外対応を削るな」という要求が積み上がり、システムは巨大化し、複雑化した。複雑化は障害を生み、障害はさらなる例外処理を呼び、現場は常時炎上状態となった。
会議では責任の所在が曖昧だった。誰も明確に「それは不要だ」「その仕様は切る」と言わない。否定すれば敵を作るからである。その結果、現場の技術者たちが矛盾を背負わされる。筆者は、無数の仕様書、終わらないテスト、不可能なスケジュール、深夜の障害対応に追われながら、「この組織は何を守ろうとしているのか」を考え続けた。
そこでは合理性よりも政治が優先されていた。
障害が発生すると、原因分析より先に「誰の責任か」が問題になった。しかし巨大組織では責任は細分化され、誰も全体を見ていない。結果として、現場担当者が疲弊する。しかも、障害対応は終わっても、根本原因が除去されない。なぜなら根本原因に手を入れるには、組織内部の既得権や歴史的経緯に触れなければならないからである。
筆者は、この経験を通じて、日本社会のある特徴を痛感した。それは、「不合理を知りながら、それに適応する人間が評価される」という構造である。
本来であれば、「その仕組みはおかしい」「この工程は破綻している」と言うべき場面でも、多くの人は沈黙する。そして、沈黙したまま耐え続ける者が「協調的」と評価される。しかし、その積み重ねは、最終的に組織全体を腐らせる。
これはシステム開発だけの問題ではない。行政でも企業でも教育でも同じ構造が存在する。誰も止めない。誰も本質的な改革を引き受けない。その代わり、現場に努力と根性が要求される。そして限界が来ると、事故や障害という形で現実が破裂する。
みずほのシステム障害が繰り返された背景には、この構造があった。技術の問題だけではない。組織が不合理を蓄積し続けた結果なのである。
筆者は、その地獄の中で、一つの結論に至った。
「不合理で割に合わないことほど、将来よいことが起こる種まきになる」という言葉がある。しかし、それは単に耐え続けろという意味ではない。本当の意味は、不合理を経験した者だけが、その不合理を言語化できるということではないか。
地獄を見た者は、組織の欺瞞を知る。責任回避の空気を知る。現場が壊れていく音を知る。そして、その経験を経た人間だけが、「同じ失敗を繰り返してはならない」と本気で語れる。
もし苦痛が単なる苦痛で終わるなら、それは消耗でしかない。しかし、経験を抽象化し、構造として捉え直したとき、苦痛は知識へ変わる。
みずほの統合現場で上筆者が見たものは、日本型組織の縮図であった。そして、その地獄を通ったからこそ、彼は「合理性を失った組織は、必ず現場から崩壊する」という事実を確信したのである。
不合理に適応し続けることは、一時的には評価される。しかし、長期的には組織を壊す。本当に必要なのは、沈黙して耐える人間ではなく、不合理を指摘し、構造を変えようとする人間である。
みずほの地獄は、そのことを筆者に教えた。
修羅場をくぐれ。ググるんじゃない。体験せよ刮目せよ。味わえ、のたうち回れ。悩め、悔しがれ。それこそが次の力になる。負けたことがあるということが、強くなることの糧だ。
以上
