街道をゆく17(島原・天草)

267頁 島原・天草の諸道
高浜村の庄屋は、代々上田家であった。
私の手もとに、昭和十五年刊の『上田宜珍(よしうず)伝』(角田政治著)という古本が一冊ある。以前愛読し、その後紛失したと思い、その後数年、古本の目録が出るごとにこの本がないかと思ってさがした。やがて一冊を得、ついで、失くしたと思っていたのが出てきた。
江戸期の庄屋というものがどういうものであったかという一端を、上田宜珍によって垣間見ることができる。宜珍の訓みは、よしうず、でヨシハルともヨシタカともいった。かれは、江戸中期、日本的な科学思想、合理主義思想が出はじめた時代といっていい宝暦五年(一七五五)、この高浜村の上田家にうまれ、文政十二年(一八二九)七十五歳で死んだ。
上田家には、古文書が多い。
この家の口碑によると、天草にきた祖は、大坂夏ノ陣のときの落武者であったという。豊臣秀頼がその末期に諸国から兵をまねいたが、その将のひとりにかつての信州の大名であった真田氏があり、幸村(名に異説があるが)という名で後世、名将の伝承がのこされた。その真田幸村の家臣に、滋野(根津ともいった)正信・定正父子がいた。滋野氏は元来真田氏の本家筋にあたるから、真田麾下でも有力なひとりだったのであろう。これが、上田家の祖である。
大坂夏ノ陣では、籠城の牢人たちは、自分たちの前途を絶望していただけに、文字どおり死闘した。徳川方も、その政権の禍の一つである牢人問題をかれらの死によって解決しようとしたため、戦死者の数が、戦史上、もっとも多かった。落武者狩りなども、徹底的におこなわれた。滋野正信・定正は、大坂落城の少し前その家来清水安左衛門・田中雅楽・禅僧志白らとともに兵を募らんため、堺から船に乗って西国をめざしていたというから、よほどの僥倖だったかと思える。やがて日本国の西のはしの天草諸島のさらにはしである下島の高浜に住み、家来たちとともに炭焼きをして暮らした。姓を上田に変えたのは、故郷の信州上田を偲んでのことであったという。
この定正が、天草諸島が幕府直轄領になってからほどなく庄屋職を命ぜられた。おそらく怜悧で、筆算に長けていたところを見込まれたのにちがいない。そのころには、なにほどかの田畑ももつに至ったのかとおもわれる。
上田家は、歴代の当主に教養があり、“地元を愛する”ことが篤かった。
宜珍の父の伝五右衛門(一七九四年、六十二歳で没)も、和漢の学に長じ、いくつかの詠草や詩稿がのこっている。
伝五右衛門の一代は、その子宜珍同様、この貧村の窮民をいかに食わせるかという課題で終始した。
「窯業を興そう」
とした。
この高浜付近の山は、昔から砥石を産した。それを砕いて磁器を焼けばよいではないか、というのが、伝五右衛門の着想であり、私財を投じて研究し、事業化した。
ごく雑な言い方をすれば、土を低温で焼いたものが陶器であり、石をくだいて高温で焼いたものが、磁器といえるかもしれない。日本では、磁器のことをかつては“いしやき”ともよんだ。
これは、筆者の紛うことなき、ご先祖様に当たります。ご紹介しておきます。
以上
