豊臣兄弟!

豊臣秀吉の、「最大の失策」って何だと思いますか?
豊臣秀吉の生涯における「最大の失策」は、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)でもなく、秀次事件(関白・豊臣秀次の切腹と一族処刑)でもなく、それらすべての元凶となった「秀頼の誕生によって、自ら構築した『豊臣家グループのガバナンスと後継構造』を自らの手で完全破壊したこと」だと考えます。

プロジェクトマネジメントの観点で言えば、「稼働中の安定した事業承継体制(二頭体制)を、個人的な血統欲のために仕様変更し、手持ちのキーマン(豊臣一門・譜代層)を自らデリート(粛清)したこと」に尽きます。

1.なぜ「秀次粛清」と「後継者計画のリセット」が最大の失策なのか

秀吉はもともと一族の層が極めて薄い(親族リソースが極端に不足している)という致命的な構造的弱点を抱えていました。
それを補うために敷いていたのが秀次を関白(本社のCEO兼後継者)に据え、自身は太閤(会長・統括)として後見する体制でした。
これは、途中までとてもうまくいっています。

しかし、晩年に実子・秀頼が生まれたことで、この完成しかけていた体制を自ら粉砕してしまいます。

(1)豊臣一門の自滅(セルフ・リストラ)

秀次だけでなく、その妻妾・子女30数名を処刑し、秀次に連座する形で多くの有能な公家・武将(最上、細川、浅野などの親族・関係者)を恐怖と疑心暗鬼に陥れました。これにより、「豊臣の血筋を守るための分家・スペア」を全滅させ、豊臣宗家を「秀頼という幼児1点のみに依存する超高リスク構造」に叩き落としました。

(2)武断派と文治派の決定的な亀裂

秀次事件の後処理や朝鮮出兵の泥沼化を通じて、石田三成ら実務官僚(文治派)と、加藤清正・福島正則ら現場武将(武断派)の対立が修復不能なレベルまで激化しました。本来なら秀吉の死後に豊臣家を支えるはずの「直系チーム」が、秀吉自身の不条理な人事と粛清によって完全に内部分裂しました。

2.朝鮮出兵という失策も「内政の破綻」の延長

よく挙げられる「朝鮮出兵」も単独の軍事的暴挙というより、国内の土地配分(インセンティブ設計)の限界と、秀次失脚以降に秀吉の専制が歯止めを失った結果です。

莫大な国力・軍事リソースを浪費し、西国大名の疲弊を招いた。
最前線で血を流した武断派と、後方で査定・兵站を管理した奉行衆の間に決定的な怨恨を生んだ。
結果として、「徳川家康だけが無傷でリソースを温存する」という最悪の力関係を自らプレゼントすることになった。
3.PMとして「完璧なシステム」を組めたはずの男の皮肉

秀吉は、太閤検地や刀狩り、兵農分離といった国家の基本設計においては、冷徹で合理的、かつ持続可能なシステムを組み上げました。

しかし、最後の最後で「自分の血を引く実子(秀頼)に天下を継がせたい」という最も原始的で非合理な情念に負け、それまで積み上げた合理的な承継システム(秀次体制)を自ら爆破してしまいました。

「一代の天才PMが、私情によって自らプロジェクトの冗長性(バックアップ)とチームの信頼関係を完全に破壊したこと」——これこそが、秀吉という人物が犯した最大の、そして取り返しのつかない失策であったと考えます。

4.PM秀吉が、設計変更をしなければどうなったのか?

秀次が継承していた場合、徳川家康(250万石)が突出した最大勢力である現実は変わりませんが、「家康が豊臣を倒すための正統性(大義名分)」「豊臣家臣団の自滅・分派」「外様大名の取り込み」という関ヶ原を成立させた3大ピースがすべて封じられます。

結果として、家康は前田利家のように「豊臣体制下の重鎮」として生涯を終えるか、あるいは徳川秀忠の代への世代交代とともに豊臣の集権化システムの中に組み込まれ、豊臣政権は一大名連合から近世国家へと軟着陸できた可能性が極めて高かったと考えられます。

一次史料の再検証を経て、現代での評価は、秀次は通説のような「無能な殺生関白」ではなく、極めて高い教養と行政能力を持ち、有力大名との人脈を築いていた政治家であったことが明らかになっています。

大名層からの広範な支持
秀次は伊達政宗、最上義光、細川忠興、浅野幸長、徳川秀忠らと深い親交を結んでいました。
史実の秀次事件では、これらの大名が連座を恐れて誓紙を提出させられるなど恐怖政治に晒され、これが関ヶ原で「全員が東軍(家康側)につく」決定打となりました。
家康包囲網の成立
秀次が健在であれば、東北(伊達・最上)から畿内(浅野・細川)、西国(毛利・上杉・宇喜多)まで、「秀次と良好な関係を結ぶ大名ブロック」が家康の関東領を取り囲む形になり、家康が単独で軍事行動を起こすリスクは極端に低くなります。
秀次の優秀な家臣団の存在
秀次には田中吉政、中村一氏、山内一豊、一柳直末といった優秀な直臣団がついていました。
彼らは秀次事件後にバラバラとなるわけですが、秀次家臣団として瓦解していなければ当時の影響力は史実とは比べ物にならないほど強かったと考えます。
三成ら奉行衆の権力暴走の抑止
奉行衆が専横を強めたのは、秀吉直結の代理人として振る舞ったためです。
成人の君主たる秀次が存在すれば、奉行衆はあくまで「関白配下の官僚」に位置づけられ、加藤清正ら武断派との感情的対立が内戦(関ヶ原)に発展するのを調停・抑止できました。
彼らは秀次切腹に伴って諸大名に引き取られたり分散したりしましたが、秀次が生きていれば「豊臣直轄の強固な親衛隊」として機能し続けました。

5.秀次政権のアキレス健

秀次政権が強固であった可能性はありますが、どの者でも弱点はあるものです。
それについて触れてみます

(1)軍事的威信の不足:歴戦の武断派をねじ伏せる「武功」の欠如

戦国末期の武家社会において、トップの統率力は「朝廷の官位」だけでなく「圧倒的な軍事実績」に強く依存していました。

小牧・長久手の戦いでの手痛い敗戦歴
天正12年(1584年)、秀次は別働隊の総大将として出撃したものの、徳川家康の急襲を受けて大敗し、森長可や池田恒興を戦死させました(自身は馬を失って逃走)。この敗戦記録は、福島正則、加藤清正、後藤又兵衛といった前線の叩き上げ武将たちに対して、「軍事指揮官としての格下感(舐められやすさ)」を植え付ける要因として残り続けました。
「軍事の家康」に対する劣等感
徳川家康は同時代で突出した戦歴と武名を誇る軍事貴族です。軍事衝突の威圧(軍事恫喝)をかけられた際、秀次自身の武威だけでは現場の大名を精神的に屈服させられない弱点がありました。
(2)「近江八幡・聚楽第閥(秀次直臣)」と「大坂閥(秀吉直臣)」の主導権争い

秀次体制の内部には、官僚機構の主導権をめぐる深刻な二重構造が存在していました。

聚楽第側近グループと大坂奉行衆の衝突リスク
秀次には、白井備後守や木村重茲といった自前の側近・執政官がいました。一方で、秀吉直属として全国の検地・兵站・財政を握ってきた石田三成、増田長盛、前田玄以ら「五奉行グループ」との間で、政権の実務・権限委譲をめぐる激しい縄張り争いが勃発する構造でした。
世代交代に伴うリスク
秀吉の遺臣(古参の重臣)が、若い秀次直属の側近たちに顎で使われることへの反発が、組織の意思決定スピードを鈍らせるリスクを孕んでいただろと考えます。
(3)「成長する秀頼」という時限爆弾と血統の二重権力

秀次が関白を継いだとしても、大坂城に「秀吉の実子・秀頼」が存在し続ける限り、政権の正統性は常に二分されるリスクを抱えています。秀次であれば、これを緩和させた・・・というより、当の本人にその考えがなかったのではないかと私は思いますが、触れておくべき簡単です。

「中継ぎ(ワンポイント)」か「完全継承」かの曖昧さ
これが難しいですね。秀次本人の思いとは別に、各家が政治的安定に向けて努力している中で、秀頼が大きくなったから代替わりするとは簡単に出来ないと思います。
仮に秀次自身は自らの家系(秀次の子ら)への世襲を望んだ場合、淀殿を中心とする大坂派閥は「秀頼が成人するまでの暫定関白」とみなしていますから、関西で大決戦だったかもしれません。
秀頼派閥によるクーデターリスク
私が最も考えるIFがこれで、秀頼が15〜20歳に達した段階で、淀殿や秀頼近臣、秀次に不満を持つ大名たちが結託し、「本来の主君である秀頼公へ政権を返上せよ」と迫る内紛(豊臣家内部の南北朝状態)が生じる可能性は極めて高かったといえます。