邪馬台国の位置比定(福岡県)

「邪馬台国」は 福岡県である(239) 
「何故 倭国は帯方郡から1万2000里なのか?」
魏王の曹操(そうそう)は 中国・華北を統一しました
その子の曹丕(そうひ 文帝)が紀元220年 後漢の献帝からの禅譲を受け 魏帝国を建国しました
その後 文帝は紀元226年に死没し 跡は 文帝の子・明帝(曹叡)が23才の若さで 帝位を継ぐ事になります
その太和3年(229年)12月 大将軍の曹真(そうしん)は 中国の西方の蜀国と対峙していたのでありますけれど 「魏の都・洛陽から1万6000里」はなれた「大月氏国(クシャーナ朝)」の国王・波調(ヴァースディーヴァ王)に使者を送り その波調を 魏帝国に朝貢させました これはその当時において「偉大な覇業」でありました 大月氏国は 魏帝国の都・洛陽から1万6000里はなれた遠い国であり 今で言うトルキスタン・アフガニスタン・パキスタン・北インドまで支配する大帝国でありました
辺境の郡太守は他国からの侵略を防がなければなりません そして 侵略を防ぐという消極的な事象ばかりでなく 逆にもっと積極的な対策 つまり蛮夷の国を臣従させる為に 「朝貢を促す策をとる」という政策が尊ばれました
それは 国の安全上 極めて有効な対策である事は 間違いない訳です そして朝貢して来た際には 献上品の数倍にもなる返礼を与えるのです
多くの返礼品を与えたからと言って それは 侵略に備えて国境に多勢の軍兵を駐留させる事に比べれば はるかに経済的に安価なのは自明の理なのでありました
要は 魏帝国の明帝は この使節団の表敬訪問を大々的に宣伝し 波調には「親魏大月氏王」の称号と金印を贈って これほどの大国と同盟関係にあり 支持されている事を 国の内外に誇示したのでありました
また これにより 西方の軍司令官・曹真は 株が一段と上がり 「臣下第一」と高く評価された訳でありました
そういう事で 曹真の名声は 大いにあがったのでありました 
それから約9年が経って紀元238年 魏帝国は 遼東の公孫氏討伐を実施するべく 司馬懿(い)率いる4万の大軍を遼東に派遣します 公孫氏は遼東・楽浪・帯方の三郡を支配し また南方の呉国とも同盟し 穏やかならぬものがありました
その公孫氏討伐を命じられたのが 司馬懿(しばい)です 司馬懿は公孫氏の首都・遼陽城を包囲しました
こうして遼陽城包囲中のその年6月 倭国から 難升米(なしめ)・都市牛利(としごり)という二人の使者(重臣)が 遼陽城包囲中の司馬懿のもとへ やって来たのでありました 二人は それまで盛大な国力を維持していた公孫氏が 魏軍によって包囲されていると聞き 公孫氏の様子をうかがいにやって来たのでありました
難升米・都市牛利は「生口10人 斑布2匹2丈」という 貧しい献上品を持って来ていました その二人に向って 帯方郡太守の劉夏が言いました
「是非 魏の都・洛陽まで向かっていただきたい 遠き倭国からの朝貢とあれば 皇帝陛下もお喜びになられるであろう」
こういう事で 難升米・都市牛利の二人は 魏帝国の都・洛陽まで向かう事になりました 
何度も言いますが 朝貢する夷狄(いてき)が遠方であればあるほど それを招いた執政者(司馬懿)の「徳」が上がるのです 大月氏国と同等にする為にも 邪馬台国は洛陽から「1万6000里」以上遠く離れていなければならないのです すなわち最低でも「1万7000里」以上の彼方にある国である必要が発生します 洛陽から楽浪郡まで「5000里」でありますから 邪馬台国は「帯方郡から1万2000里」以上でなければならないのです 要は これが「帯方郡から邪馬台国まで 1万2000里」となっている理由であります
その上で 距離は大月氏国より さらに遠方に さらに方位は呉国の背後(台湾付近)となるように設定されていました 
それは『三国志』の中で 共に「親魏◯◯王」となる「親魏大月氏王」・「親魏倭王」とを対比させて表現する為にも必要な事でありました
司馬懿が 公孫氏を滅ぼすと同時に置かれた帯方郡の太守・劉夏としては 太傅として上公の地位にあった司馬懿の「徳」を宣揚する為にも 倭国という「1万7000里以上の遠い大国」を作り その夷狄(倭国)の使節をタイミング良く洛陽へ派遣しなければならなかったのです
曹真が 洛陽から1万6000里の遠い国である「大月氏国」からの朝貢に成功し 高く評価された事にならい 司馬懿の「徳」を宣揚する為に 大月氏国より遠い国・倭国を創造し 洛陽から「1万7000里」 つまり「帯方郡から1万2000里」はなれた国として その位置を捏造して つまり2000里ほどの道程の倭国を1万2000里と偽ってでも 「倭国の朝貢を促した」としなければならなかったのです 
要は 倭国を朝貢させる事が第一で 粗末な貢物も 遠い国からはるばるやって来た事を強調する為に使える と考えたものでありました
こうして 倭国の位置である「帯方郡から1万2000里」は定まりました そうではありましたが 現実には「2000里」程度しかない倭国の位置を「1万2000里」にする為には 「短里」を新たに作り 使用する以外なかったのです
そういう事で 「帯方郡から1万2000里」「水行10日 陸行1月」は定まりました
要するに 倭国の位置は 『魏志倭人伝』が言うように 「帯方郡から伊都国までが1万500里」 あとはそれより「1500里(約100キロメートル)」南に下るところ(場所)に位置していたのです
私は 邪馬台国の場所は「朝倉市甘木」だと思っています 「水行10日 陸行1月」のところ 要は帯方郡から朝鮮半島の西海岸の海上を南へ5日 あと朝鮮半島の南の海上を東へ2日で金官へ到着  それから水行1日で対馬 ふたたび水行1日で壱岐 さらに水行1日で末蘆国(松浦郡) その末蘆国から徒歩500里で伊都国 その伊都国から1500里(約100キロメートル)南へ下ったところが邪馬台国 すなわち「水行10日 陸行1月(その間の晴れの日待ち・海流待ち・陸を歩く)」等の事があって その到着したところに 邪馬台(やまと)国は存在したのでありました
以下の「表(A)」は 私の北部九州に存在していた「邪馬台国」の想像図です
また 「表(B)」は奈良時代 紀元758年の九州の人口推定数字です 壱岐島が『魏志倭人伝』によりますと3000戸となっておりますから 1家5人家族として3000戸 人口1万5000人が実在していたのでありまして 奈良時代の人口18436人を 紀元3世紀の壱岐島の人口15000人と比較しますと 壱岐島の人口は奈良時代の80パーセントである事が分かります そこから類推しますに 九州の人口は 奈良時代の人口の約80パーセントである事が分かります すなわち邪馬台国時代 そういう事で九州の弥生時代の人口は 弥生人の渡来も多く 早くから鉄器も韓半島・大伽耶からどんどん入って来て普及しており 農業分野でも先進地域でありまして 耕作地も早くに増加し 人口も早くに飽和状態になっていたのであり 邪馬台国時代は 九州における人口は 奈良時代の約80パーセントを維持していたのでありました(九州以外では この前提は事情が異なります)
そういう事で 九州における福岡県・佐賀県・長崎県のみが 『魏志倭人伝』にいう邪馬台国の人家7万戸・人口35万人を含有する事ができる一帯でありました 邪馬台国はやはり 北部九州に あったのでありました 表示を縮小