自粛しないで
令和8年熊本地震において、多くの尊い命が失われ、今なお不自由で苦しい避難生活を余儀なくされている方々が数多くいらっしゃいます。犠牲となられた方々に心よりお悔やみを申し上げますとともに、被災されたすべての皆さまに深いお舞いを申し上げます。一日も早い安心の訪れと、復旧・復興を祈ってやみません。
そうした甚大な被害に立ち向かう厳然たる事実がある一方で、私たちは今、もう一つの極めて深刻な問題に直面しています。それは、地震そのものがもたらした「直接的な破壊による被害」の陰で静かに、しかし確実に広がっている「情報と不安による被害」です。風評被害という一言で片付けてしまうにはあまりにも重く、理不尽な現実によって、今この瞬間も深く傷つき、苦しんでいる人たちが大勢存在しています。
私には、熊本県南小国町で温泉宿「山しのぶ」の若女将を務めているTさんという大切な友人がいます。彼女はまだ20代という若さでありながら、地域の魅力を全国に発信し、伝統ある温泉地を未来へつなごうと、日々強い情熱を持って奮闘している人です。そんな彼女から私のもとに届いたのは、胸が締め付けられるような悲痛な知らせでした。
今回の地震において、彼女たちの宿がある南小国町や宿の建物自体には幸いにも大きな被害はなく、インフラの安全も十分に確認され、通常通りお客様をお迎えできる完璧な状態にあります。それにもかかわらず、地震発生からわずか2日の間に100件を超える宿泊予約のキャンセルが殺到し、その後も受話器が鳴るたびに辞退の連絡が止まらないというのです。「安全です」「元気に営業しています」という声は届かず、ただ一方的に予約が消えていく。丹精込めて準備した料理や、お客様を温かく迎えるはずだった客室が次々と空虚な空間へと変わっていく恐怖と無力感は、計り知れません。建物が倒壊していなくても、お客様が途絶え、事業の継続が脅かされるのであれば、これもまた間違いなく「震災による被害」そのものです。
報道機関やメディアでは、深刻な被害を受けた地域や、懸命に行われている救助・復旧活動の様子が連日大きく報じられます。人々の命を守り、安全を確保するためには、こうした情報の共有は不可欠であり、最も優先されるべきことです。しかしその一方で、被害を免れた地域や、通常通りの生活・営業を続けている場所の存在、そしてそこに生きる人々の営みは、ほとんど画面に映し出されることがありません。その結果、「熊本全体が壊滅している」「九州全体に行かない方がいい」という過剰な自粛意識や漠然とした恐れが全国へと拡大し、本来であれば動くはずだった人やお金の流れが完全に止まってしまっています。
この影響は、南小国町だけに留まりません。私自身が生活し、アルバイトをしている福岡の現場でも、その影響は生々しい数値となって表れています。ある人が勤務するレンタカー会社では、本来であれば熊本や鹿児島などの現地で乗り捨て返却されるはずだった車両が、行き先を失って急遽福岡の店舗へと乗り捨てられる事態が急増しています。さらに深刻なのは、九州各地への出張や旅行を予定していたお客様からのキャンセルが相次ぎ、本来ならば各地へ出発していくはずの車両が何十台も店舗の駐車場に停め置かれたまま動かないことです。わずか1日のうちに車両置き場は満車となり、パンク寸前の異例の事態に陥っています。これは単に一つのレンタカー店舗の困惑にとどまらず、九州全域に渡って人流と経済活動が途絶えつつあることの明白な兆候です。
もちろん、甚大な被害を受けた地域への配慮は絶対に忘れてはなりません。救助活動や緊急車両の通行を優先すべきであり、その妨げとなるような無計画な行動は固く慎むべきです。しかしだからといって、被害のなかった地域や復旧を終えて安全が確保されている地域まで一緒になって経済活動を止めてしまうことは、本当に正しい支援のあり方なのでしょうか。九州全体の経済という血管に血が通わなくなれば、巡り巡って被災地を長期的・財政的に支え続けるための体力そのものが九州全体から奪われてしまうことになります。
だからこそ、私は皆様に強くお願いしたいのです。九州への出張や旅行を計画されている皆様、どうか「九州だから」「熊本だから」という大まかな理由だけで、安易に行くことを取りやめたり、予約をキャンセルしたりしないでください。どうか一度立ち止まり、ご自身の目的地や移動経路の「正確な現在の状況」をご自身で確認した上で判断していただきたいのです。
少なくとも、友人のいる南小国町は元気に営業を続けています。コンコンと湧き出る豊かな温泉も、地元の旬を凝縮した素晴らしい食も、青々と広がる美しい自然の景観も、何一つ失われることなく、皆様を笑顔で迎える準備を整えて待っています。福岡から南小国へ向かうルートについても、高速道路を使わなければ行けないわけではありません。一般道を利用すれば、福岡市内から車でわずか2時間から3時間ほどで到着できます。私自身、家族で小国や南小国へ出かける際は、移り変わる風景を楽しめる一般道を日常的に利用しており、今回もその道はしっかりと繋がっています。
また、宮崎や鹿児島方面についても、「道が途絶えて行けないのではないか」という思い込みが広がっていますが、決してそんなことはありません。九州自動車道の一部区間で通行止めが実施されているのは事実ですが、高速道路を管理する事業者からは、東九州自動車道を利用した確実な迂回ルートが明確に案内されており、高速道路を経由して宮崎や鹿児島へアクセスすることは可能です。
さらに一般道を組み合わせることで移動の選択肢は幾重にも広がります。実際にある知人は、地震発生の翌日である7月29日の夜、宮崎県の高原町から一般道のみを通って、途中で何ら支障をきたすことなく無事に福岡まで帰ってくることができました。それだけではありません。天草を経由して鹿児島へと結ぶ臨時フェリーの運航も開始されており、福岡と鹿児島を結ぶ航空便の増便措置も取られています。確かに、平常時と比べれば移動に多少の時間がかかるかもしれません。しかし、「九州へ行くことができない」というのは完全な誤解であり、現地へ辿り着くための道はしっかりと開かれているのです。
現地では、今この瞬間も灯りを守り、看板を掲げ、お客様のお越しを心から待ち望んでいる宿があります。美味しい食事を提供しようと仕込みを続けている飲食店があります。地域経済の灯火を消さないために歯を食いしばって踏みとどまっているお店や商店街があります。彼らが最も恐れているのは、地震そのものの揺れではなく、人波が途絶え、誰からも忘れ去られてしまうことです。
だからこそ、お願いです。自粛という名のもとに閉じこもるのではなく、「現地へ行く」という選択をしてください。このような困難な時期だからこそ、九州へ足を運んでいただきたいのです。このような時だからこそ、熊本を、宮崎を、鹿児島を訪れてほしいのです。
皆様が現地を旅すること、ビジネスで訪問すること、宿に泊まり、地元の料理を味わい、お土産を買い、笑顔で会話を交わすこと。その当たり前のような一つひとつの行動と消費こそが、悲しみに暮れる地域を元気づけ、現地の雇用と生活を守り、復興へと立ち上がるための最も力強く、最も温かい支援の力になります。過度な遠慮や一律の自粛は、誰も幸せにしません。正しく恐れ、正確な情報に基づき、元気な地域をより元気にすることこそが、巡り巡って被災された地域への長期的な助けとなるのです。
最後に、大切な友人である南九州の方々へ。
悲鳴を上げたくなるような状況の中で、懸命に宿を守り、地域のために声を上げ続けるみなさんの姿を想うと、胸が熱くなります。本当に、本当に大変な苦労と不安の中にいると思います。一個人である私にできることは決して多くはないかもしれませんが、こうして現場の真実を語り、正しい現状を社会に伝え続けることならできます。
決して絶望に負けないでほしいとおもいます。私たちは絶対にこの困難を乗り越えられます。過剰な自粛の波を払いのけ、再び全国からたくさんのお客様が笑顔で南小国を訪れ、君の温かいもてなしに心から癒される日が戻ってくることを、私は固く信じています。
【友人の旅館「山しのぶ」のインスタグラム】

