楽天モバイル繋がらない

新しい端末を手にするとき、人は少なからず高揚感を覚えるものだ。手元の真新しいiPhoneの滑らかな手触りと、これから始まる快適なデジタルライフへの期待。それらを胸に、通信会社も思い切って楽天モバイルへと乗り換えた。「データ使い放題」「圧倒的な低価格」という甘美な謳い文句に惹かれたのは事実である。日々の固定費を合理的に見直し、よりスマートに生きるための賢明な選択のはずだった。しかし、その期待は日常のふとした瞬間に、音を立てて崩れ去ることになる。結論から言えば、あまりにも繋がらないのである。文鎮かよ。

「繋がらない」という現象が、現代社会においてどれほどの強烈なストレスをもたらすか。それは実際に経験してみなければ真には理解できないだろう。それはそれで大変勉強になる。例えば朝の通勤時。地下鉄の階段を降りる途中で、スムーズに再生されていた音声コンテンツが不自然に途切れる。あるいはコンビニエンスストアでの支払い時。レジの前に立ち、決済アプリを立ち上げようとするが、画面中央でローディングの円が虚しく回り続けるばかりだ。後ろに並ぶ人々の無言の圧力を背中に感じながら、冷や汗を流して端末を宙にかざし電波を探す。プラチナバンドの割り当てやエリア拡大が報じられて久しいが、私の生活圏である福岡の街中、とりわけ奥まった建物の中や地下街では、その恩恵を実感する機会は驚くほど少ない。アンテナのピクトグラムはか細く1本立つか、無慈悲な「圏外」を表示し続けている。

驚くほど高精細なディスプレイを持ち、美しい写真が撮れる最新のiPhone 16eも、ひとたび通信ネットワークから切り離されてしまえば、ただの少しばかり賢い文鎮に過ぎない。どんなにハードウェアの性能が優れていても、インフラという目に見えない土台が脆弱であれば真価は発揮できないのだ。情報が血液のように社会を巡る現代において、通信環境の喪失は単なる不便を超えて、社会からの孤立すら錯覚させる。メッセージの通知は遅れ、急ぎの調べ物もできず、地図アプリすらフリーズする。通信制限を気にして自らデータ通信を抑えるのと、電波が届かないために強制的に通信を遮断されるのとでは、精神的な疲労度が全く異なる。「使わない」のではなく「使えない」という事実は、真綿で首を絞められるようなじわじわとした不満と無力感を、確実に心に蓄積させていくのである。

むろん、楽天モバイルが日本の通信市場に一石を投じたことは間違いない。大手キャリアによる寡占状態に風穴を開け、価格競争を引き起こした功績は評価されるべきだ。挑戦的な企業姿勢や、自社回線網の構築という途方もないプロジェクトにはロマンすら感じる。しかし、一人の一般ユーザーとしての私は、その巨大な通信インフラ実験のβテスターになりたかったわけではない。日常生活を滞りなく送るための、インフラとしての絶対的な安定性を求めて対価を支払っているのである。「現在エリア拡大中」「順次改善予定」という未来への希望的観測よりも、今、目の前にあるレジでの決済を完了させるための確実な電波が欲しいのだ。サポートページを開けば「機内モードのオンオフ」といった対症療法が並ぶ。それに従い、何度画面の上から下へスワイプして飛行機のアイコンをタップしたことだろう。不毛な儀式を毎日繰り返している。

この理不尽な事態に直面して気づかされたのは、自分がいかにインターネットという見えない蜘蛛の糸に依存して生きていたかという事実である。ポケットの中のスマートフォンが常に世界と繋がっているという安心感は、水や空気と同じくらいあって当然のものになっていた。たまにはデジタルデトックスも悪くないなどと嘯いていた自分を恥じたい。いざ強制的にネットワークから遮断されると、そこにあるのは心穏やかな静寂ではなく、ただの焦燥感と苛立ちだけであった。私は情報の波に疲れていたのではなく、情報の波に乗れていないことに恐怖を覚えるだけの、ひ弱な現代人に過ぎなかったのだ。

窓の外を眺めると、街は今日も変わらず活気にあふれ、無数の人々が行き交っている。空には見えない電波が縦横無尽に飛び交い、誰かの言葉や映像を淀みなく運んでいるはずだ。しかし、私の手元にある真新しい端末だけが、その巨大な情報の奔流からぽつんと取り残されている。楽天モバイルが真の意味で「第四のキャリア」として成熟し、この街のあらゆる死角を電波で満たしてくれる日が来るのを待つべきか。それとも早々に見切りをつけて、高くつくが安定したかつてのキャリアへと出戻るべきか。画面の右上、いまだ頼りなく点滅するように1本だけ立つアンテナを見つめながら、今日もまたため息とともに機内モードのスイッチに指を伸ばす。この美しくも繋がらない板をポケットにしまい込み、見えない電波に一喜一憂する日常は、残念ながらまだしばらく続きそうである。