仰木彬監督

仰木彬監督は、私の高校の先輩です。このことを私は非常に誇りに思っております。わたしも、私の才能を高める以上に、他者の才と努力を認め応援できる人間になろうと思います。
誰も信じなかった打ち方を、たった一人だけ「触るな」と言い切った監督がいた。
二軍でもがいていた鈴木一朗は、やがて「イチロー」と呼ばれ、日本野球の歴史を塗り替える。
世界へ続く道の入口には、仰木彬の決断があった。
オリックス入団当初、鈴木一朗の打撃フォームは異彩を放っていた。
投球に合わせて右足を大きく動かし、体重を前へ運んでいく独特の振り子打法。常識的な打撃理論から外れて見えるフォームに、コーチ陣から修正を求める声が上がった。
結果が出なければ、フォームを直される。
若い選手なら、なおさら拒むことは難しい。
鈴木は二軍で過ごす時間が増え、自分の感覚と周囲の評価の間でもがいていた。
流れが変わったのは1994年だった。
新たに指揮を執った仰木彬監督は、若い打者のスイングを見て、周囲とは違う判断を下した。
「フォームをいじるな」
直すのではない。
持っている感覚を守らせる。
仰木は鈴木の中にある非凡な打撃能力を信じ、さらに登録名を漢字の「鈴木一朗」から、カタカナの「イチロー」へ変えた。
球場に「イチロー」の名前が響き始める。
起用された若者は、バットで応えた。
鋭い打球が一、二塁間を抜ける。
外角球を逆方向へ運ぶ。
内野安打になりそうな打球では、一塁へ向かって爆発するように走る。
一本、また一本。
1994年、イチローはシーズン200安打の壁を日本プロ野球で初めて突破した。
誰も歩いたことのない数字へ到達した21歳は、一気に日本球界の中心へ駆け上がっていった。
やがて海を渡り、メジャーリーグでも安打を積み重ねる。
しかし、どれほど大きな存在になっても、イチローの中で仰木彬の位置は変わらなかった。
王貞治には「王監督」。
原辰徳には「原監督」。
ほかの指揮官を名字とともに呼ぶイチローが、仰木彬だけは「監督」と呼んだ。
名字はいらなかった。
イチローにとって「監督」と口にすれば、それは仰木彬だった。
才能を見抜いた人。
打撃フォームを守った人。
「イチロー」という名前を世に送り出した人。
選手人生の分岐点で、自分を信じてくれた恩師だった。
2005年12月。
仰木彬が亡くなった。
訃報を受けても、イチローはすぐには現実として受け止めきれなかった。
そして、もう本人が出ることのない携帯電話へ電話をかけた。
番号を押す。
発信する。
耳元から呼び出し音が聞こえる。
何度鳴っても、当然、声は返ってこない。
それでも電話を切れなかった。
メジャーで数々の記録を打ち立て、世界中の投手と戦ってきた男が、恩師との別れの前では、一人の教え子に戻っていた。
仰木からもらった言葉。
自分を信じてもらった日々。
二軍にいた若者へ差し伸べられた手。
呼び出し音を聞きながら、イチローの胸にはさまざまな記憶が押し寄せていた。
翌2006年。
第1回ワールド・ベースボール・クラシック。
普段は感情を大きく表に出さないイチローが、日の丸を背負い、誰よりも熱くチームを引っ張った。
ベンチで声を出す。
塁上で拳を握る。
勝利を求め、仲間を鼓舞する。
日本は決勝まで勝ち上がり、初代世界王者となった。
仰木彬がイチローへ渡したのは、打撃技術ではなかった。
「お前のままでいい」
一人の若者の感覚を信じ、才能を押し込めず、思い切って世に送り出した。
もし1994年、仰木が振り子打法を否定していたら。
もし「イチロー」という名前が生まれていなかったら。
後に世界を驚かせる打者の歩みは、違うものになっていたかもしれない。
2005年冬、つながるはずのない電話をかけたイチロー。
耳元で鳴り続けた呼び出し音の向こう側にいたのは、最後まで彼にとって唯一無二の「監督」だった。
