倭国

【筑前(九州北岸)の「倭國」は。西暦 107年に後漢に朝貢して認められ、182年すぎに版図(支配領域)を筑後にまで拡大し、367年まで存在した】(一部再掲)
奴國(なのくに)・不彌國(うみのくに)・宗像國・崗國(をかのくに・遠賀郡)は、西暦100年すぎに江南地方(揚子江流域)から九州西岸(山門國)に上陸して移動してきた江南人の国々と見られています。江南地方の「二種の神器」(銅剣・銅鏡)「祖霊神信仰」「天照大神伝承(山門國の矢部川上流の日向神峡谷に生まれて太陽神を祀った娘の話し)」「航海術」(準構造船)をもっていたようです。奴國王は、西暦57年に後漢に朝貢して「漢委奴國王印」をもらったことが知られています。
西暦50年ごろ朝鮮半島の人びとが強大な奴國を避けて糸島平野に入植しました。糸島平野の当時の地層から「新」(前漢と後漢の途中にあった帝国)の硬貨が出土します。入植したのは漢人であったと見られますが、新羅からも「新」の貨幣が出るので、新羅人(建国前の新羅人)であった可能性もあります。
糸島平野は耕作に適しませんでしたが、伊都國は交易権を実質的に独占しました。古代船には、唐津航路が最も安全であったと見られます。鉄製の農具は収穫量を飛躍的に増大させ、鉄製の武器は兵力を飛躍的に強化しました。
西暦100年ごろ伊都國王は奴國・不彌國・對島國・一支國・斯馬(しま)國・末盧國を支配下に収めたようです。伊都國がそれほど急速に強大となったことは発掘物とその年代推移からそのように見られています。江南人は、伊都國の脅威を避けて、宇佐を経て瀬戸内海方面へ流落(るらく・落ち延び)します。宗像は日本海方面へ流落します。江南人の中には取り残された人びともいて、伊都國王に服属したようです。
西暦107年に伊都國王・帥升(すいしょう)は「倭國王」と称して後漢に朝貢しました。「帥升等」と複数形であり、支配した国々の国王を引き連れていたと見られます。お披露目と見られます。
「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」(後漢書)
その「倭國」は後漢の属国ですから、毎年観察使が来ました。楽浪郡から狗邪韓國までの「七千餘里」、末盧國までの「一萬餘里」、末盧國から伊都國までの「五百里」は、監察使が伊都國の迎賓館(『魏志倭人傳』の「郡使往來常所駐」)を訪ねたころの記録です。奴国と不彌國は「属国の属国」ですから、伊都國から奴國までの「百里」と奴國から不彌國までの「百里」は、後漢使が伊都國で知った伝聞の記録の可能性があります。
伊都國王は、支配した国々に「卑奴母離(ひなもり)」という武官を派遣していました。卑奴母離は、支配権が卑彌呼に移ってからも朝鮮半島からの脅威に備えるためにそれぞれ引き継がれます(魏志倭人傳)。宗像國・崗國には文献史学上卑奴母離が置かれた記録がないので、伊都國王の倭國には服属しなかった可能性があります。崗國南部の筑豊地方はそのころは未だ「生活グループ」でした。
180年ごろ「倭國大亂」が起きました(後漢書)。伊都國王が版図(支配領域)を拡大しようとして筑後の国々に侵攻しました。後漢が述べる「倭國」とは、後漢が認識する倭國のことです。それは、日本列島のことではなく、前記伊都國を盟主とする九州北岸の連合王国のことでした。後漢が「倭國大亂」のことを述べる理由は、後漢(樂浪郡)との交易が途絶えたからであり(後漢書)、樂浪郡に責任(損害)が生じたからです。
倭國大亂は「暦年」と書かれていますから(魏志倭人傳)、二年以上続きました。182年すぎに収束したと見られます。『魏志倭人傳』に「倭國」は男子の王を立てて「七、八十年」暮らしたと書かれていますが、その「七、八十年」の起点が前記西暦107年の倭國王・帥升の朝貢でした。
倭國大亂は、伊都國王は大率(だいそつ)という全三十余国に対する「行政監察権」(実質的な政治的支配権)をもつ。筑後の卑彌呼が女王としてその上に立って「祭祀権」(全三十余国のゆくえを決める権利)をもつ。という条件で収束しました。
当時日本列島に牛馬はいませんでした。『魏志倭人傳』にも「其地無牛馬」と書かれています。伊都國の大率は「歩き」と「舟」で「三十余国」を行政監察に回ったようです。各国は大率を恐れはばかりました(魏志倭人傳)。それが可能であったのは、女王國・倭國の三十余国が福岡県かそれよりやや狭い範囲にあったからと見られます。
女王國・倭國は「三十余国」とはいっても、環濠集落を中心とした、今でいう市か郡程度の広さの国であったようです。弥生時代の九州の全人口は、コンピュータ考古学による推定で 105,100人でした(国立民博・考古学者・小山修三教授 1984年)。この人口は経済学者・鬼頭宏(上智大学教授)によっても追認されています(2007年)。
その中のたとえば伊都國が古墳時代に伊覩縣(いとのあがた)となり、飛鳥時代に怡土(いと)郡となり、隣の斯馬(しま)國が志摩(しま)郡となったように、飛鳥時代には三十余国がそのまま三十余郡になったと見られます。すると、女王國・倭國は福岡県かそれよりやや狭い範囲にあったと見られます。その全人口は高々「30,000人」でした。すると、女王國・倭國「三十余国」の総戸数は高々「4,000戸」でした。一か国平均で高々「150戸」。これが現実であったと見られます。一般庶民が土間に莚(むしろ)を敷いて生活する暮らしは、江戸時代初期まで続きました。
女王國・倭國の国々は、大国に支配されることを嫌いました。また、強大な権力者に支配されることを嫌いました。卑彌呼が十三、四歳の少女であったことも、かえって女王として受けいれられる条件であったようです。また、筑前(九州北岸)の諸王国にとって、天地開闢(てんちかいびゃく)のころから筑後で太陽神を祀ってきた十三、四歳の「日の巫女」が女王に立つという話しを受けいれた可能性は高いです。
女王山(みやま市瀬高町大草)の卑彌呼の居所には、宮室と、見晴らし台があり、城柵が設けられていて衛兵がいるだけだったようです。
「居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞」(魏志倭人傳)
見晴らし台からは遠く「吉野ヶ里」(当時の国名は不明)、直ぐ北に「投馬國」などが見渡せました。
魏使の報告書も、魚豢(ぎょかん)が『魏略』(257年)を『魏志倭人傳』(285年)より 30年近く前に書いたころは、倭國に行った魏使もまだ存命であったと見られ、「水行二十日」「七万戸」「侍女千人」といった誇大な飾りがなく、そのようなごく素朴な内容であったと推定されます。
「邪馬臺國」は後漢・魏の発音で「やまとこく」と読みます(John R. Bentley,"The Search for the Language of Yamatai." Japanese Language and Literature 42: 1-43, 2008)。当時「やまとのくに(山門國)」はありましたが、「やまたいのくに」はどこにもありませんでした。
「投馬國」の「投馬(とぅま)」は「妻(とぅま・spouse)」です(Bentley, 2006)。妻縣(つまのあがた)は福岡県久留米市から八女市に及ぶ広大な地域でした。
投馬國(妻縣)の直ぐ「南」に邪馬臺國(山門縣)がありました(魏志倭人傳)。
366年、『日本書紀』によれば、伊都國王・五十迹手(いとで)が下関の彦島で第十四代仲哀天皇・神功皇后に自らの三種の神器を献上して帰順しました。
「筑紫伊覩縣主祖五十迹手聞天皇之行拔取五百枝賢木立于船之舳艫上枝掛八尺瓊中枝掛白銅鏡下枝掛十握釼參迎于穴門引嶋而獻之」(日本書紀)
366年のこの時点で「三十余国」の行政監察権をもつ伊都國王が大和王権に帰順したわけですから「邪馬臺國畿内説」も「邪馬臺國東遷説」もあり得ないことを『日本書紀』も述べています。
184年すぎに卑彌呼が後漢の第十二代靈帝(在位 168-189)からもらったと見られる「金錯銘花形飾環頭大刀」(きんさくめいはながたかざりかんとうたち 国立博物館所蔵・国宝)は、367年に最後の女神が大和王権に田油津媛(たぶらかしの女性呪術者)の蔑称で殺されて戦利品(盗品)として奪われるまで、代々相続されたと見られます。
- 添付図は縄文海進地図( http://flood.firetree.net )にAdobePhotoshopで着色記入したものです。
-
