倭国

【西暦 200年には、王国として「女王國・倭國」「吉備王國」「出雲王國」が存在した】(一部再掲)
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西暦100年すぎに武帝の南下政策によって揚子江流域を追われた江南人は、大航海の末に、九州西岸(筑後の山門國付近)に上陸したと考えられます。
以下は文献資料と新しい考古学的知見をすべて動員し、それらの範囲内で当時の神話を尊重して申し述べるものです。
江南人は、九州北岸で王国群として繁栄しました。江南地方の「二種の神器」(銅剣・銅鏡)「祖霊神信仰」「天照大神伝承(九州西岸に上陸したころ、矢部川上流の日向神(ひょうがみ)峡谷に生まれて太陽神を祀った娘の話し)」「航海術」(準構造船)をもっていたと考えられます。
王国群でもっとも繁栄していた奴國王は、西暦57年に後漢に朝貢して「漢委奴國王印」をもらったことが知られています。
九州北岸の人びとは、前漢から「倭人」と呼ばれても、自らは「やまと民族」として共通の意識をもっていたと見られます。
九州北部には、すでに紀元前900年ごろに稲作が伝わっていました。しかし、当時の人びとの生活は、なお縄文人の狩猟採集と弥生人の雑穀栽培が中心だったと考えられます。
江南人の「祖霊神信仰」は、稲作に根源的な影響を及ぼしたと見られます。それまでは、森羅万象に神々が宿っていました。しかし、自らの祖先の霊に守られた人びとは、森林や原野を開墾し、水田をつくることができると考えるようになった可能性があります。
天津人(あまつびと・江南人)であった瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、前記日向神峡谷で生まれ、土地の娘(国津人の娘)と結婚し、九州北岸に移り住んで稲作を基盤とする生活を行って見せた象徴的な人物として語られたと見られます。瓊瓊杵尊は「天照大神の孫」として称えられました。ただし、実際に天照大神の血を引く孫であったかどうかは分かりません。
紀元前50年ごろ、王国群にいた「いはれびこ」は遠賀川河口の「崗水門(をかのみなと)」を発ち、稲作に適した土地を求めて 宇佐・安藝・吉備 を経て、東大阪市を航行し、畿内に侵攻したと考えられます。当時は縄文海進の影響で海面が高く、生駒山麓に接岸することができたようです。また、紀元前50年ごろには稲作を中心とする生活様式が近畿地方へ広がりつつありました。稲作とは、縄文弥生人が住む土地に侵攻して土地を収奪して行う仕事でした。そのころ畿内ではまだ縄文・弥生人が狩猟採集・雑穀栽培をして暮らしていたと見られます。「いはれびこ」が畝傍山麓で即位したことを示唆する考古学的痕跡はありません。しかし、九州北岸の人びとの間には「瀬戸内海の向こうに稲作に適した土地がある」という情報が伝わった可能性があります。そのため、「いはれびこ」は、東征の英雄として、後世には瓊瓊杵尊のひ孫として称えられたと見られます。実際に天瓊瓊杵尊の血を引くひ孫であったかどうかは分かりません。
西暦50年ごろ朝鮮半島から来た人びとが強大な奴國を避けて糸島平野に移住したと考えられます。入植したのは漢人であったと見られますが、建国以前の新羅人であった可能性もあります。
伊都國は交易権を実質的に独占したようです。鉄製の農具によって農業生産力が大きく向上し、鉄製の武器は兵力を飛躍的に強化しました。
西暦100年ごろ伊都國王は、奴國・不彌國・對島國・一支國・斯馬(しま)國・末盧國を支配下に収めたようです。伊都國が短期間で強大化したという見方は、発掘された遺物とその年代の変化に基づいています。
伊都國の勢力が拡大すると、江南地方から来た人びとの一部は、その脅威を避け、宇佐を経て瀬戸内海方面へ流落(るらく・落ち延び)したと見られます。江南人の中には取り残された人びともいて、伊都國王に服属したようです。
西暦107年に伊都國王と見られる帥升(すいしょう)は、自らを「倭國王」と称して後漢に朝貢しました。「帥升等」と複数形であり、支配した国々の国王を引き連れていたと見られます。お披露目と見られます。
「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」(後漢書)
西暦180年ごろ「倭國大亂」が起きました(後漢書)。伊都國王が版図(支配領域)を拡大しようとして筑後の国々に侵攻したようです。ここでいう「倭國」とは、後漢が認識していた地域名です。日本列島全体を指すのではなく、伊都國を盟主とする九州北岸の連合王国を指していたと見られます。後漢が「倭國大亂」を記録したのは、樂浪郡との交易が途絶え(後漢書)、樂浪郡のほうに責任(損害)が生じたからと見られます。
倭國大亂は「暦年」と書かれていますから(魏志倭人傳)、二年以上続きました。182年すぎに収束したと見られます。『魏志倭人傳』に「倭國」は男子の王を立てて「七、八十年」暮らしていたと書かれています。その「七、八十年」の起点が前記西暦107年の倭國王・帥升の朝貢でした。
倭國大亂は、伊都國王は大率(だいそつ)という全三十余国に対する「行政監察権」(実務的・政治的な支配権)をもつ。筑後の卑彌呼が女王としてその上に立って「祭祀権」(全三十余国のゆくえを決める権利)をもつ。といういわば、新しい倭國三十か国は「二重構造」をもつ条件で収束したようです。
西暦 200年ごろ、かつて九州北岸にいた王国群は、宇佐・安藝を経由して吉備へ移動し、そこで繁栄したと見られれます。吉備では、初代の大王「はつくにしらす」が出現した可能性があります。この人物は、古代の東征を行った英雄「いはれびこ」に見立てて称えられたでしょう。しかし、「いはれびこ」ではありません。
一方、宗像は日本海方面へ流落し、出雲で繁栄していました。現代でも、毎年十月になると日本中の神々が出雲に集まると考えられています。この神話は、古代の「出雲王國」が強大な勢力を持っていたことを反映しているようです。
吉備王國にとって同じ九州北岸を発った同族(やまと民族)である「出雲王國」は唯一の脅威だったと考えられます。それが、日本神話の「三分の一」を出雲が占める理由でしょう。また、それが、吉備王國がさらに畿内の纏向に流落する原因だったと見られます。
そのころの奈良盆地には、「唐子・鍵遺跡」に見られるような環濠集落や生活共同体が存在していました。しかし、当時の奈良盆地には、何らかの王権が存在していたことを示唆する考古学的痕跡は、確認されていません。
添付図は縄文海進地図( http://flood.firetree.net )にアドビ・フォトショップで着色記入したものです。
