鳥栖の田代領

鳥栖市の歴史を紐解く上で、江戸時代における**対馬府中藩(宗氏)の飛地「田代領(たしろりょう)」**の存在は、現在の鳥栖が「交通の要衝」「製薬の街」として発展する基盤となった極めて重要な歴史的背景です。

1. 田代領の成立:なぜ対馬藩の飛地が鳥栖にあったのか

江戸時代の鳥栖地域は一体の行政区分ではなく、西半分が佐賀藩(鍋島領)、東半分および現在の基山町一帯が**対馬府中藩(宗領・田代領)**という二分統治の構造になっていました。

  • 飛地成立の経緯(慶長4年 / 1599年) 対馬は山がちで農耕地(米の収穫)が極めて乏しい島でした。豊臣政権下での朝鮮出兵の講和・戦後処理や日朝国交回復に尽力した対馬藩主・宗義智に対し、薩摩国出水郡の替地として肥前国基肄(きい)郡・養父(やぶ)郡の一帯(約1万3,000石〜後に加増)が与えられました。
  • 統治拠点「田代代官所」 対馬本国から遠く離れたこの地を治めるため、現在の鳥栖市立田代小学校の敷地付近に田代代官所が設置され、代官が派遣されて領内統治と年貢米の対馬輸送を担いました。

2. 交通の結節点「長崎街道 田代宿」

田代領の中心地であった田代宿は、長崎街道の宿場町として大いに繁栄しました。

  • 三国の境・追分の交差点 田代は筑前・筑後・肥前の3国の国境が接する要衝でした。宿場内には日田・豊後方面へ分岐する「日田彦山道」や久留米・薩摩方面へ分岐する街道の追分石(道しるべ)が置かれ、九州各地を結ぶ分岐点となっていました。
  • 宿場町の機能 大名が参勤交代で利用する上使屋(本陣に相当)や高札場、さらに藩校「東明館」などが整い、商人や旅人、異国の使節やオランダ商館長(カピタン)の江戸参府隊が行き交いました。

3. 「田代売薬」の誕生:日本四大売薬への発展

現代の鳥栖市が**「くすりのまち」と呼ばれる最大の起源が、この田代領で育まれた田代売薬(配置売薬)**です。 項目特徴・詳細 日本四大売薬富山・大和(奈良)・近江(滋賀)と並び、田代は西日本を代表する売薬拠点となった。 朝鮮貿易の恩恵対馬藩は江戸幕府から対朝鮮貿易の独占権を認められていたため、朝鮮人参をはじめとする良質な漢方生薬原料や大陸の医学処方が直接手に入った。 看板薬「朝鮮名法奇応丸(きおうがん)」など、小児薬や家庭常備薬として高い信頼を得た名薬が製造された。 藩の産業育成当初は農閑期の副業だったが、天明8年(1788年)頃から対馬藩が登録制・運上金徴収を行って公認し、藩財政を支える主要産業へと育て上げた。

田代の売薬行商人は柳行李(やなぎごおり)を背負い、「先用後利(先に薬を預け、後から使った分だけ集金する)」システムで九州一円から西日本各地へ販路を広げました。

4. 幕末の激動と対馬本国との結びつき

飛地でありながら、田代領民と対馬本国の連帯感は非常に強いものでした。

  • ポサドニック号事件(1861年) ロシア軍艦ポサドニック号が対馬の芋崎を不法占拠した際、本国の危機を救うため、田代領から316名の領民・義勇兵が海を渡って対馬警備に出兵しました。
  • 勤王・尊王攘夷運動の舞台 対馬藩は長州藩と親交が深かったため、長州の高杉晋作ら志士が田代宿を訪れるなど、幕末期には九州における情報交換や政治活動の中継地としても機能しました。

5. 近代への移行と現代への遺産

明治維新の廃藩置県(1871年)により対馬藩田代領は廃止され、厳原県などを経て佐賀県に編入されました。しかし、田代領が遺した2つの基盤は現代に直結しています。

  1. 製薬産業の近代化 明治以降、田代売薬の伝統と組織力は近代的な製薬企業へと脱皮しました。田代売薬の流れを汲む**久光製薬(サロンパス等)**をはじめ、現在も多くの医薬品関連工場・研究所が市内に集積しています。
  2. 交通都市「鳥栖」の確立 江戸時代の長崎街道の交差点という地理的優位性は、明治22年(1889年)の九州鉄道(現・JR鹿児島本線・長崎本線)開通と鳥栖駅・田代駅の設置へと引き継がれ、九州屈指の鉄道・物流結節点となりました。