従業員を一人の人間として扱うこと

稲森和夫
1997年、資産2000億円の日本を代表する実業家・稲盛和夫が、がん宣告を受けた。その瞬間、彼はわずかに呆然としただけで、病院を後にした。そして翌日、彼が発表した二つのニュースは日本経済界に衝撃を与えた。
1997年初頭、消毒液の匂いが立ち込める診察室。空気が張り詰める中、医師は胃がんの確定診断書を指さし、「即刻、入院手続きを」と叫ぶように告げた。対面に座る65歳の老人、日本で「経営の神様」と称される男は、ただ時計を見つめた。
「がんですか」稲盛の声は、まるで天気の話をするかのように淡々としていた。「でも、午後には会議が入っています」。医師の驚きをよそに、彼は本当に病院を出て行った。
その午後、彼はいつも通り会議室の上座に座り、報告を聞いた。夜には実業家たちとの会合に出席し、談笑した。誰一人として、この数兆円規模のビジネス帝国を統べる男の胃の中に、時限爆弾が仕掛けられているとは知らなかった。
深夜、自宅に戻り、妻にだけはこうさりげなく告げた。「がんらしい。でも、もう全部手配したから、心配するな」。翌日、日本のメディアは騒然となった。彼が言う「手配」とは、経済界の構図を一変させる二つの深層爆弾だった。
株主総会で彼は静かに宣言した。世界企業である京セラとKDDIの社長を辞任し、経営の第一線から退く、と。さらに狂気じみた行動に出た。個人保有の約200億円相当の株式を、全従業員に寄付すると発表したのである。
当時の200億円とは、どれほどの価値だったか。地図上の小さな国一つ買えるほどの金額だが、彼は袖の埃を払うように、その巨額の富をばらまいた。世間は「がんに怖気づいたのか」「世俗を捨てたのか」と噂した。
1959年、27歳で京セラを創業したばかりの頃、彼は従業員の集団ストに遭った。賃上げと将来の保証を求める声に、彼は窮地に立たされた。しかしその妥協が、「アメーバ経営」の原型を生んだ。企業は資本家のATMではなく、従業員の幸せの器であると悟ったのだ。
1997年のこの全財産寄付は、慈善事業などではなかった。彼が信じてきた「富は個人のものではない」という信念の最終決済だった。鹿児島で廃品回収で家計を支えた貧しい少年から、資産家へと上り詰めた彼は、手術室に入る前に、すべての金銭的しがらみを断ち切り、従業員との最後の契約を果たした。
俗事をすべて処理し終えて、初めて彼は医師に身を任せた。手術で胃の3分の2を切除。術後の生活は過酷で、一口の食事ごとに激しい痛みに襲われた。しかし稲盛にとって、肉体の手術は序章に過ぎなかった。本当の「大手術」は京都・円福寺で行われた。
その年の秋深く、京都の街に「大和」という法名の老僧が現れた。午前3時、肌を刺す寒風の中、草鞋を履き、托鉢で一軒一軒を回る。かつて一言で株式市場を揺るがした大実業家は、一粒の米すらもらえずに空腹に耐え、見知らぬ人からの叱責や白い目に耐えた。
この巨大な落差こそが、彼の求めたものだった。後に彼は「慢心を殺すためだった」と振り返る。成功がもたらす傲慢さは、がんよりも治りにくい。寒風の中、高貴な頭を垂れ、衆生に施しを乞うことで初めて、「尊大な社長」という自分を殺すことができると。
誰もがこの老人が僧侶として生涯を終えると思った矢先、運命は2010年に再び彼に難題を突きつけた。日本航空(JAL)が巨額の負債を抱えて破綻。官僚的な体質に息が詰まりそうな状況だった。当時の鳩山由紀夫首相は三顧の礼をもって、78歳の稲盛に再出馬を懇願した。誰もが「晩節を汚す必敗の役回り」と断じる火中の栗だった。
それでも彼は飛び込んだ。傷ついた胃を抱え、条件は「無報酬」だった。彼はウォール街の複雑な金融商品を持ち込む代わりに、仏門で修行した「人心錬金術」を持ち込んだ。たった二つのことだけを実行した。「従業員を一人の人間として扱うこと」と「一円単位で経営を管理すること」。
奇跡はこの一見ひ弱な老人の手で起こった。わずか424日で、日航は破綻の淵から蘇り、史上最高の営業利益を叩き出した。これは単なる経営数字の勝利ではなく、「敬天爱人」の哲学が現実世界で成し遂げた次元の異なる勝利だった。
2022年8月、90歳の稲盛和夫は京都で静かに息を引き取った。1997年、あの入院を拒んだ午後の決断は、わがままなどではなかった。彼の人生で最も輝かしい「分水嶺」だったのだ。
彼は金を他人に分け与え、胃を医者に預け、心を仏に捧げ、最後の力を社会のために注いだ。真の強者とは、不死身の者ではなく、生死の境界線で、なお泰然自若として次の挑戦を仕掛けられる者のことなのだ。
