機会の平等と結果の平等

日本人ってのは
同調圧力に塗れているゆえに
平和や平等という言葉に慣れきってしまい、
上とか下とか、
分け隔てする言葉を
耳にすると目をつり上げて反発する。
例えば、
ものすごく努力して長い時間をかけ、
少しずつ経験を積み重ねて信頼を得て、
大きく会社や社会に貢献した人A、が
いるとする。
それに比べ、
おもいつきで仕事を始めてみたが、
特に努力もなにもせず、
楽して生きていけないだろうかと
ぼんやり考えている戦力外の新人B、も
いるとする。
Aには会社から大きな報酬が支払われ、
Bにはほとんど報酬が発生しない。
そう聞いたら、
そらその通りだろと感じる。
会社の報酬システムは
極めて正当ではないかと感じる。
では、
出世して認められ、
高額な報酬をもらうAを『上の人間』と呼び、
会社になにも貢献できていないBを『下の人間』と呼ぶ。
部外者が現れてそれを聞いたらどうなるか?
『上の人間だけが高い報酬をもらっているのは、
下の人間の給料を搾取しているからだ!
上はもらいすぎ、下はほとんどタダ働きじゃないか!』
となるわけだ。
だが果たして、
『AとBが平等な報酬をもらえることが、
真に平等な世の中だと言えるのだろうか?』
どう考えてもおかしい論法である。
考えれば誰でもわかる簡単な
足し算や引き算なような話。
それがわからないのは、
その簡単な足し算や引き算すら
やってみる習慣が
世の中から失われているからだ。
自分の頭で考えず、計算せず、整理しない。
誰もが簡単な答えだけを欲しがる。
だからこんなことが起こるわけだ。
吉本興業の給与体系が一番わかりやすい。
1本で1億を稼ぐ仕事をしている芸人と、
月に数本の仕事もなく、アルバイトを掛け持ちしながらでないと吉本にいられない(契約を切られる)人間もいる。
その人達は。。。。
『俺たち下のものは搾取されていて、儲かるのは上ばかりだ!』
などと、
言うだろうか。。。??
才能の差、仕事の内容の差、
なにもかもはっきりと差がついている。
しかしその差を憤っているだろうか。
自分でもわかっているはずだ。
そこには、
埋められない差があることを。
それでも、
その『下の人間』は、
いつか自分も『上の人間』になることを
夢見て頑張るわけだ。
そのガッツが称賛される
その根性が報われる、ことがある
そんな当たり前の世の中の方が、
偽物の結果の平等を
離れた場所から声高に叫ぶ「だけ」の輩の
いる世界よりも
ずっと、清く正しい。
そんなふうに思うわけです。

おわり