名門!小倉藩

福岡県立小倉高校

北九州市小倉。北九州市の市庁舎があり、小倉城があります。そして名門福岡県立小倉高校。だけど、実際あんまり知られてませんよね。そもそも五市合併という派手な合併劇を果たした地方公共団体、政令指定都市としては調子こいてる福岡市なんかよりはるかに先輩格の北九州市民としては、なんとなく忸怩たる思い、鬱屈した思いを持たれている方も多いのではないでしょうか。
筆者の出身は、別に小倉ではなくて、国も違う大蔵川の向こうの筑前黒田藩八幡村、そしてこの地は1901年、日清戦争の賠償金でいきなり国営企業「製鐵所」が建設されてから一気に変わっていくことになりますが、それは別の話としてかの地である、誇り高い小倉藩の歴史の話をしたいと思います。

名門!小倉藩。その苦難と誇り高い歴史を知ってください。
私のよく知る小倉と小倉高校出身の人たちの顔を目に浮かべながら、長い長い文を書きました。
あっという間でした。文章の勉強としても最高でした。
小倉藩よ永遠なれ。

小倉高校、通称倉高(くらこう、と呼ぶ)という名門高校について。もちろん、旧小倉藩の藩校由来の地方名門公立高校です。しかし、この小倉藩は苦難の歴史を持っています。時代は戦国時代まで遡って話始めますが、まず、この豊前小倉の地は、九州と本州をつなぐ関門海峡を有する九州の蓋として、とても戦略的に意味を持つ土地でした。かつては、下関側から日本海に突き出している半島「彦島」をかの平家にあらずんば人にあらずと謳われた平安末期、平家の西日本支配の拠点として要塞化され、かの壇ノ浦の戦いは、この地を最後の孤塁として戦われました。そこで落ち延びた平家の落人たちが、この九州の地に潜んで、一部は宮崎県の高原に至り椎葉の名前をもちそこに密かな里を作って今も椎葉村として残っている、みたいな話をしだすとまた脱線するので元に戻しますが、そんなこんなで九州も平定した源氏の総大将がよこした三大太守(と筆者が勝手に呼ぶ)少弐、大友、島津の3族のうちのひとつ、大分府内を根城にした大友氏によって、この小倉の地は治められることになります。

まだまだ前史

天正15年(1587年)、大友家の一の家来であった高橋鑑種の養嗣子・高橋元種が、豊臣軍の侵攻に小倉城を開城するという憂き目に遭います。そして、豊臣秀吉の家臣だった森勝信が豊前小倉6万石(一説に10万石)を与えられ、小倉城に入城します。なお、子の勝永にも豊前国に1万石(4万石とも)を与えられ、この際に秀吉の計らいによって元の姓である森から、中国地方の太守・毛利氏の姓を名乗らせています。そうして、毛利勝信・勝永となった父子ですが、こちらは関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となり、大坂の陣で勝栄は大坂五人衆の一人として名を馳せ、散っていくのです。ここからつづく、かの地小倉の苦難の歴史を暗示しているようです。

そうして細川氏時代に移ります。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで細川忠興は東軍に属して戦い、居城である丹後国田辺城は父細川幽斎が勅命により講和するまで西軍に頑強に抵抗しました(田辺城の戦い)。その功により戦後細川氏は丹後田辺・豊後杵築合わせて18万石から、豊前一国と豊後国国東郡・速見郡都合39万9千石に大幅加増されこの地に入部しました。当初は黒田長政の居城だった中津城に入城、小倉城を支城として弟の興元を城代とします。しかし慶長6年(1601年)に興元が出奔したのを受け、小倉城を大大名の居城として相応しい規模の城郭と城下町の建設を開始し、慶長7年(1602年)小倉城に藩庁を移たのです。今の小倉城、城山公園はここに完成するのです。宮本武蔵と佐々木小次郎との決闘が当時は小倉藩領だった巌流島で行われたのはこの細川氏の時代です(ここ!巌流島の決闘ね!テストに出るよ!!)

のちに元和6年(1620年)、忠興は隠居し、三男忠利が第2代小倉藩主となります。その後、忠利は寛永9年(1632年)加藤忠広の改易に伴い、熊本藩54万石に加増・移封されます。2回の大きな特進を経て、肥後54万石の大大名になりおおせた細川氏は、ずっとあとのことになりますが、平成の世になり、その殿様首相として名を上げることになります。第79代首相、細川護熙その人ですね。

いよいよ徳川譜代、小笠原氏時代

長いっすよね。ほんとすみません。で、同年、播磨国明石藩より、忠利の義兄であり、徳川家と縁の深い小笠原忠真が入部し、小倉城主として豊前北部15万石を領します。なおその際、支城の豊前中津城には忠真の甥長次が8万石で入部し中津藩が、同じく豊後杵築城には忠真の弟忠知が4万石で入部し杵築藩が成立します。豊前豊後を小藩で固めて、島津細川鍋島黒田といった、心許せない大大名たちを九州の地に押し込め留置き、徳川幕府に仇成すことを防ぐ、これが彼ら、特に筆頭であり小倉を任された、小笠原藩の家訓となったのです。九州に唯一と言ってよい、親藩譜代大名たちの誕生です。ですがあまりにも勢力が弱すぎました。

忠真の母は松平信康の娘で徳川家康の外曾孫にあたることから、以後小倉小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を抑える、いわば「九州探題」「九州警固役」の役割を果たし外様大名の監視にあたったのです。これが幕末における小倉城落城の大きな原因です。260年間押し込められた薩長土肥の恨みが一気にこの小藩小倉藩に降り注ぐ、その様は見ていられません。涙を誘います。奥羽州列藩同盟、東北の地の盟主の会津藩、これも確かに新政府軍に攻められ悲惨な目にあったと思います。そしてこのことは今の令和の世にもよく知られていますよね。しかし、ほとんど四方すべてが新政府側に与していたこの九州山口の地にあって、唯一、徳川幕府の名代として、この要害の地小倉を守り抜いた小笠原藩、この武門に秀でた巌流島の無骨な藩が、どれだけの訓練を積んで来たのか、想像を絶します。宮本武蔵の嗣子宮本伊織は、父ともに出陣した島原の乱の軍功などにより知行4000石の小倉藩筆頭家老となり忠真を支え、以後宮本家は代々その地位を世襲しました。2代忠雄は寛文7年(1667年)藩主相続の際、弟の真方に小倉新田藩(千束藩)1万石を内分分知します。武門の誉れ、その地位を確固たるものにしないと、他の外様の大大名たちに舐められてしまうのです。もう一度言います。薩摩細川鍋島黒田、そして関門海峡の向こうには、120万石から36万石まで減らされ恨み骨髄に至っている毛利長州藩。これらの雄藩にぐるりと囲まれ、わずか15万石で、どうやって抑えをきかせたらいいのでしょうか。彼らは考えました。そうして、一騎当千、一人の武士で10人を倒せと、そういう軍事教練スパルタ思想教育が根付いたのです。アタリマエのことでしょう。四方に展開する10倍の敵に一歩も引かずに徳川幕府の誇りある名代として睨みを利かせる、言うことを利かせる警官隊。それが名門小倉藩のオリジナルストーリーなのです。修羅の国北九州、小倉?当たり前だろそんなこと。そういうお前はこの場に立ってみたことがあるのか?

享保15年(1730年)には、3代忠基の次男長逵が、継嗣のいなかった播州安志藩初代藩主小笠原長興の養子となってこれを相続、以後小倉藩・小倉新田藩・安志藩の小笠原三家は継嗣の養子縁組などにより姻戚関係を深め、小倉新田藩のみならず本来小笠原氏の嫡流だった安志藩までもが小倉藩の分家筋のように位置付けられていくこととなっていきます。思想面でも、軍事面でも、小笠原小倉藩連合は力を蓄えます。いわば世界史上に燦然と輝く日本列島版スパルタ国。その軍事教練思想訓練は強烈なものです。4代忠総は、宝暦8年(1758年)に小倉城内に藩士の文武教練場「思永斎」を設けます。これが後の藩校「思永館」となります。文字通りのガッチガチの教練場。もちろん、今の小倉高校にこの思想は受け継がれています。だからこそ強烈なのです。この令和の時代にこんなことがまかりとおるのかよ小倉高校。男だろうが女だろうがそんなの関係ねえ!

筆者は、小倉高校の隣の校区の東筑高校1990年入学ですが応援練習は外形的にはまあまあ地獄でした。ただ違うのは「修猷館や東筑はバンカラやなくて自由。倉高は他と違って根性だけを鍛えるひたすらスパルタ式ガチ暴力高校」という風聞どおりだった点であります。ほとんどの生徒が騙されたといい、卒業後も固く口を閉ざします。小倉高校を出た人から、自由とか明るい話題を聞いたことがありません。旧制中学校のバンカラ文化の残り香があるというか立派に永久冷凍保存されているのです。そんな3年間のスパルタのおかげで?大学に入ると規範意識が完全に逆に振れて社会性を失ったまま今も生きている。どんな大学でも、ブラックな職場でも、あれよりはまし、天国に見えた、という多数の意見が聞いております。

小倉藩に戻します

小倉高校から小倉藩に戻します。ここはウィキペディアの単なる引用なんで、適当に流し読んで下さいw。安永6年(1777年)犬甘知寛(いぬかい ともひろ)が家老に就任し藩財政改革を行います。犬甘の努力により寛政10年(1798年)頃には財政も好転し銀8千貫の貯蓄ができるまでになりますが、反対派の陰謀により享和3年(1803年)に失脚、無実の罪により入牢しそこで非業の死を遂げます。その後藩内では重臣間の派閥争いが続くこととなります。文化8年(1811年)第6代藩主小笠原忠固の時代に文化の変とも白黒騒動とも呼ばれる御家騒動が勃発。文政3年(1820年)には郡代杉生貞則による産業振興策が始まり、今川の河川改修、各地の道路整備、宇島港築港などが行われます。文政年間には村方騒動も起こります。そうして幕末期。幕末の安政元年(1854年)には家老島村志津摩と郡代河野四郎らによる藩政改革が始まります。農産品・石炭・焼物などの主要産品の集荷と販売を藩機構によって管理し、生産者を育成する一方で販路を開拓、また庄屋層の農村運営を検査して綱紀粛正を徹底します。

文久3年(1863年)には、海防強化のため関門海峡沿岸に葛葉台場・東浜台場・西浜台場などの砲台を建設し、補助兵力として農兵の募集・訓練も開始します。この年には対岸の長州藩が関門海峡を通行する外国船に砲撃を行い、下関戦争につながってゆきますが、幕府は敵対行動を取っていない外国船への一方的な先制攻撃を指示しておらず、小倉藩は配備は敷いたものの戦闘行動は行っていません。この頃長州藩との間では、関門海峡に面する小倉藩領の田野浦などに長州藩が一方的に兵を入れて占拠し砲台を建設しようとするなど、紛争が続きますが、小倉藩は幕府とも協議の上、長州藩との武力衝突を回避し交渉による解決に努めた。長州藩との関係は、八月十八日の政変以降長州藩の勢力が弱まり、占拠されていた地区は返還され、一旦小康状態となる。小倉藩はその後も防備強化に努め、慶応元年(1865年)には蒸気船・飛龍丸を購入したのです。

ああ小倉落城

そして長州征討では、小倉藩は征討軍の九州側最先鋒として第一次、第二次ともに参加します。元治元年(1864年)の第一次長州征討では長州藩が江戸幕府に対する恭順を示し、戦闘は発生しなかったが、翌慶応元年(1865年)の第二次長州征討(四境戦争)では、小倉藩は征長総督の老中小笠原長行の指揮下で小倉口の先鋒として参戦します。この戦闘は幕府・小倉藩に不利に展開し、長州軍の領内侵攻により門司が制圧されると、小笠原総督は事態を収拾することなく戦線を離脱し、他の九州諸藩も軒並み撤兵に転じます。孤立した小倉藩は慶応2年(1866年)8月1日小倉城に火を放ち、田川郡香春(現香春町)に撤退します。その後も、家老島村志津摩を中心に軍を再編して企救郡南部の金辺峠及び狸山に防衛拠点を築き、高津尾を前線基地として長州軍に遊撃戦を挑み、一時は小倉城を奪還するに至ります。しかし、同年10月には他戦線での停戦成立に伴って長州側の兵力が増強されると、次第に圧迫されるようになり、多くの防衛拠点が失われるに及んで、停戦交渉が開始されます。交渉は困難を伴い、講和締結は翌慶応3年(1867年)1月20日となりました。この講和条件の一つとして、企救郡については、長州征討の根拠の一つであった長州藩主父子の罪が解かれるまでの間、長州藩が「預り」として引き続き占領下に置くこととされたため、小倉藩は企救郡を回復することができなかったのです。その上、実際には長州藩主父子が朝敵の罪を赦免され、再び官位を得た後も企救郡は小倉藩に返還されず長州藩支配下に置かれ続け、明治2年(1869年)に至って日田県の管轄に移されることとなります。慶応3年3月に藩庁を正式に香春へ移転。この香春に藩庁を置いている時期は、後年香春藩(かわらはん)と呼ばれるようになります。さらに明治2年12月24日には京都郡豊津(現みやこ町)に藩庁を移して豊津藩(とよつはん)となった。その際に藩庁として建設された豊津陣屋の遺構として藩校表門が現存しています。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により豊津県となったのち、小倉県を経て福岡県に編入された。明治2年(1869年)小笠原家は華族に列し、明治17年(1884年)に伯爵となった。明治9年(1876年)に多発した不平士族の反乱においては、秋月の乱で挙兵した秋月党から、豊津士族も蜂起するよう迫られますが、暴徒に加担しないという方針を取って乃木希典(もちろん長州の人で203高地と明治天皇殉死で有名な軍神乃木神社のひとね)率いる小倉鎮台と共に秋月党を退けています。

そして小倉高校

かように、小倉藩は苦難の歴史を歩み、そうして幕末に長州戦争で破れ、藩庁・藩校を豊津(現・みやこ町)に移転したことから、小倉藩校の直系は、旧制豊津中学(現・福岡県立育徳館高等学校)であり、その小倉分校が小倉中学(第一次)であったわけです。さらに、そのよすがもなく、小倉中学(第一次)は1887年(明治20年)に廃止されてしまいます。その後、小倉市民の20年余に亘る熱烈かつ粘り強い、復活嘆願運動を経て、1908年(明治41年)、ついに福岡県立小倉中学校として再興されたのです。なお、現在の小倉高校では、明治41年を開校の年としています。2008年(平成20年)に創立100周年を迎えました。
小倉高校を出ている有名人を一人あげます。日本銀行白川総裁。そして、1947年、1948年連続の夏の選手権大会2連覇という輝かしい戦績。これもこの苦難とド根性と修羅のスパルタ式教育を誇る、かの小倉高校、倉高の伝統のなせる業なんだと思います。

エンドロール的に

小倉藩
歴代藩主

細川家
外様 39万9千石 (1600年 - 1632年)
忠興
忠利

小笠原家
譜代 15万石 (1632年 - 1871年)
忠真
忠雄
忠基
忠総
忠苗
忠固
忠徴
忠嘉
忠幹
忠忱

ずらりと並ぶ歴代藩主の通字「忠」。徳川二代将軍、秀忠公に通じる幕府直系の誉高い小倉藩。そして、自由?博愛?それが何だ、ひたすら教練、ブラックスパルタ教育鉄拳制裁の(厳しすぎてあんまり行きたくないけど)小倉高校に栄光あれ。

以上