九州の大王、筑紫君磐井のお話

古代日本、九州の王者筑紫君は大和王権と日本列島を二分して戦った!

▼九州王朝の大王、筑紫君磐井。九州八女の岩戸山古墳は、全長180メートル。同年代のライバル継体天皇の古墳とほぼ同レベルの巨大古墳です。九州に生きる人たち、たった1,500年前に、我々のご先祖はあの大和王権と、ガチで日本を二分して戦ったんですよ。
そういうことをいつもどこでもあたりかまわず言ってまわっている私。本音で話す、正直でいるというのはとても勇気がいることだと思いますけど、それでもやります。ご先祖さまたちが生きた熱が好きだからです。磐井の元に集った筑紫王権の部民の心に思いを致して古墳の上に立つとき、いいようのない感動を覚えるのです。
▼日本列島を分けた天下分け目の戦いといえば、西暦1600年関ヶ原、西暦672年壬申の乱、西暦1467年勃発の応仁の乱といろいろありますが、その始めのはじめこそ、西暦527年、筑紫君磐井の乱でしょう。
▼「勝者側」である大和王権の後継国家であるところの今に続く日本国が初めて編纂したとされる「日本書紀」という公式文書にごく簡単に記載されている戦いです。しかしながら、今日はこの戦いがどのようなものであったかを、筑紫君磐井の墓であると、筑後風土記等の現場資料によって事実上唯一特定されている(比定ではない)、九州最大の前方後円墳(全長180メートル)である岩戸山古墳(福岡県八女市北部)に行ってきましたので記しておきたいと思います。これは趣味ではなく、当社として歴史を正しく知るという意味での事実上の研修です。
▼時は西暦527年、当時日本列島最大の勢力は、もちろん畿内大和地方を領する大和王権でした。ちなみに令和の現在、学術的にはヤマト王権、とカタカナ表記されるものですが、ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、日本列島で3世紀から始まるとされる古墳時代に「王」「君」(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の一部分を支配した首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織のことでありました。西暦500年頃の日本列島には、今の大阪平野や奈良盆地などの大和地方、または出雲や吉備、四国の讃岐や東海、関東平野や北部九州地方の強力な国がいわば地域連合的代表国となりまわりの国を従えたと考えられています。いわば、高校野球の甲子園大会における、「準々決勝」くらいまで勝ち進んだチームが日本列島に8から10チームくらい並び立っていた、というようなご想像をされていただければ結構です。

岩戸山古墳(福岡県八女市北部)

岩戸山古墳

▼古代日本で大和王権とガチで日本列島覇者を争った筑紫君磐井(つくしのきみいわい)を訪ねて、行ってきました。
▼この大和王権は、確かに当時、優勝候補の最右翼だったでしょう、何なら、春夏連覇の大阪桐蔭高校、みたいな存在だったのでしょうが、旧来は一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)などと呼ばれてきまして、昭和後半生まれの筆者などもその言葉で授業で習った口です。しかしながら、歴史専門家や学者の中で「大和」という地名や「朝廷」という政治権力として用いられる語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめましたが、筆者は、何でもカタカナ表記にすればエクスキューズされるという考え方が逃げをうっていて嫌いなのと、何よりも、北部九州代表の「筑紫君磐井」さんが、明らかに北部九州筑紫国の代表であることは明白ですので、対比すべきその敵としても、ヤマト王権などというカタカナネームではなく、ここは堂々と地名を冠した「大和王権」とさせていただきます。本当は、同格なのですから「大和君(やまとのきみ)」とするか、こちらサイドの筑紫の君を「筑紫大王(つくしのおおきみ)」としてバランスを取りたいところです。大和大王(やまとのおおきみ)vs筑紫大王(つくしのおおきみ)と書きたいくらいです。
▼とにかく、そのように、今につづく天皇家とその一味であるところの日本史を知ってしまっている我々後世の日本人としては、最初から大和王権が天皇家となり、平城京平安京の世の中につながっていく、ということを素直に信じてしまうのですが、その当時に立ち戻って考えると、そりゃ畿内地域の大和大王の勢力も強かったかもしれませんが、北部九州(筑後川地域)の筑紫大王の力も、そりゃ強くて、もしかしたら、こっちサイドこそが日本列島統一のワンチャンあったかもしれないのです。というか、南朝鮮の新羅や任那(加耶)諸国と北部九州(筑紫君+豊君+火君)を加えた3地域連合で対峙して、出雲や四国、吉備の勢力ともいい感じで連合すれば、大和朝廷(どうしても昔の言葉で書いてしまいますね。。昭和生まれだから)を上回る勢力になったかもしれないのです。
▼‥というようなことは、当然敵側のラスボス大和王権側も考えますから、当時の大和王権の大宰相であったところの大伴金村(おおとものかなむら)、この人こそ雄略天皇という大王亡き後、継体天皇という次の大王を北陸地域から持ってきて、畿内他豪族の反対を押し切って大和に入内させる大政治家であり、いわばその後の藤原不比等などを遥かに上回る大物であり黒幕であったと思いますが、とにかくこの人が目指す継体天皇を戴く日本列島統一に最も邪魔だったのが筑紫君磐井(筑紫大王磐井)であったことは間違いなく、やがて大和王権側の言いがかりで大戦(おおいくさ)の幕が切られます。そうして1年以上もの間、6万人という大軍で、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を総大将とする大和王権軍や筑紫に攻め寄せ、筑後川を挟んで戦いますが、ついに決定的な決着はつきませんでした。ここからは筆者の勝手な想像ですが、筑紫君磐井は引退し子の葛子(くずこ)に位を譲渡し、物部麁鹿火の顔を立てる形で朝鮮半島との交通路である北部九州、糟屋の地を割譲して和議となったと考えています。

新羅、任那(加耶諸国)、筑紫君の連合でヤマト王権に勝てたかも

▼このように、事案の詳細は全く不明ながら、勝者側の大和王権側の後継「国家」である後世の「持統帝」朝廷において編纂された「公式」記録文書の日本書紀によると、筑紫君磐井が反乱を起こしたとあります。筑紫君と書かずに、まるで律令体制の一地方役人であったところに「国造(くにのみやつこ)」と書く程度にはdisっていまして、527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野(おうみけな)率いる大和王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された王権間の戦争、とあります。日本書紀によれば筑紫君磐井は殺されたとありますが、散逸した現場資料の「筑紫国風土記」には別の記載があるというわけです。
▼最後に、日本全国に主に見つかっているだけで約5,000以上もある古墳において、被葬者が筑紫君磐井と特定できる唯一の古墳が岩戸山古墳といいまして、九州地方で最大の前方後円墳、全長180メートルの威容を今も誇っています。この筑紫君磐井の最大のライバルであった継体天皇陵(前方後円墳)が全長200メートルで大阪の地に残っていることを考えると、筑紫君(筑紫大王)側にも、繰り返しますがワンチャンあったのではないかと、九州側の人間としては思わずにはいられません。繰り返しますが、筑紫君はちくしのきみ、と読み、筑紫大王はちくしのおおきみ、と読むのがイケた読み方です。
▼「磐井の乱」に勝ち、日本列島全土を統一し、大和王権から天皇家を戴く律令国家となりおおせ、国号を日本と定めて藤原京→平城京→平安京と栄華を極めた畿内勢力も、ついに関八州の徳川幕府という武家勢力にその経済政治基盤を奪われ、ついに戊辰戦争を経て天皇家が京都(平安京)を捨てて部下の将軍の居城であった江戸城に乗っかり引っ越すという京都側からは屈辱の極みである「遷都」を経て、江戸、今の東京にその地位を奪われます。そんな日本人の栄枯盛衰の歴史を感じながら、岩戸山古墳の円墳最上段に佇みますと、日本人の営々と生きてきたその息吹を感じられ、とても清々しいものでありました。
▼それでは、唐突に終わりますが今日も頑張ってまいりましょう。ずっと続く日本列島にやってきた先人たちの末裔として。

岩戸山古墳(前方後円墳)の前方部頂上から後円部頂上を臨む図
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