共に招魂場上の花とならん(高杉晋作)
高杉晋作
猛烈の奇兵何の志す処ぞ
一死をもって邦家に報いんと要す
欣ぶべし名遂げ功なるの後
共に招魂場上の花とならん
(長州下関・桜山招魂社碑)
(原文)
猛烈奇兵何所志
要将一死報邦家
尤欣名遂功成後
共作弔魂場上花
弔む羅和留 人尓入るべき 身なり志尓
弔む羅宇人となるそ は津か志
謹弔
霊魂
故 奇兵隊士 東行狂生
慶応元年八月 招魂場祭事
(読み下し)
猛烈の奇兵 何の志す所ぞ
一死を将(も)って 邦家に報いんと要す
尤(もっと)も欣(よろこ)ぶ 名を遂げ功成りて後
共に弔魂場上の 花と作(な)らんを
弔らわる人に入るべき身なりしに
弔う人となるぞはずかし
幕末の倒幕運動や戦で死んだ庶民の奇兵隊隊士を高杉晋作が弔った言葉です。
この桜山招魂社が東京招魂社へ、そして靖國神社、全国の護国神社につながりました。
わたしは、そのような謂われのある、長州下関・桜山招魂社の関門海峡の向こう側の北九州市八幡に育ち、そしていま、福岡縣護国神社そばの六本松というところに、住んでいます。
(NHK「その時歴史が動いた」)
欣ぶべし名遂げ功なるの後
共に招魂場上の花とならん
以上