自学と授業は別物
自ら学ぶ自学と教えてもらう授業との間には同じ教育といっても大きな違いが横たわっていて全く別物ということについて述べておきます(2020/01/06)
おはようございます。
2020年1月の、授業や講義ではない、学習者自体の自主性を重んじた「自学」に関する配信記事です。
特に高校、大学への進学に、いわゆる「主観的な失敗」をしてしまった人の中に一定数、心を病んでしまう人がいます。
病む、というより、脳にダメージが残る、いわゆる脳に怪我をした状態です。
犯罪を犯してしまったり、また究極の自傷行為である、自ら命を絶ってしまう、そんなケースもあります。
それほどまでに、プレッシャーを受けたのかというと、残念ながら、ほとんどの子供たちにはものすごいプレッシャーがかかっています。
進学を強要し、暴言を子供に浴びせる親もいます。
他の子や入試に必要なペーパーテストの点数を常に意識され、競わされ、「親の主観的に」良い成績を期待され続けるという子もいます。
そして、全く関係のない他人からすれば、そこまでやるかと思っても、当人たちは大真面目に、「普通」であり「常識的なこと」となってしまっている現状があります。
それは、世の中がそのような雰囲気であるということも一因かもしれませんが、よりもっと深く考えてみますと、その親も、もちろん子供も、かような教育しか受けていないから、ということではないかと思うのです。
日本で「学歴」という場合、同じ「学部」レベルの入試の難易度、すなわち偏差値のことだけを言うのですよね。
東大とか京大とか、早稲田とか慶應とか。
高等教育におけるもっとも大切かつ基本的なカテゴリの違いである、「学部」すら、ろくに意識もされません。
これって、とってもおかしいことなのです。
少なくとも、世界的には。
世界的には、学歴とは、学部卒、大学院修士課程卒、大学院博士課程卒、の学位があるかどうかということであって、加えて、大学院博士課程に向かうほど、「どういった分野を専攻してその分野の専門知識や技能に秀でているか」ということがきちんと評価されます。
評価されるということは、その能力を期待された給与や待遇面での違いがあるということです。
そして、大学院博士課程卒と学部卒が、同じ大卒で新卒一括採用として全く同じ待遇でいつかの4月1日から働き始める、というのは、世界的にも見て「稀な(否定的な意味はありませんが)」ことなのです。
ましてや、大学に入る前の、世界的には学歴とは到底言えない、中学高校レベルにおいて、有名中高一貫校やら域内一番手の公立進学校とかいうブランドなど、何の価値もないのです。
思うに、日本においては、高等教育の「中身」については乏しい、あるいは他と違いを出すことができないがために、大学全体をよくわからない「ブランド」で固めるしかなく、そうした実社会や研究では「使えない」学生であることは、実は採用する側の企業もよくわかっていて、企業研修と称して一から鍛えなおす、したがって、採用するにはできるだけ早い時期=現役(ストレート)で留年していない、22歳時で卒業見込みの学部卒を求めるという傾向になっているのではないでしょうか。
こうした、ある意味非常に狭い「進路」における「進学」に失敗したからといって、これは本当に失敗なのでしょうか。
やはり、親もその親の世代も含めて、そういう教育しかされていないから、ではないかと思うのです。
こうして出来上がった、日本における「学歴(本当の意味での学歴ではないですが、便宜上こう呼びます)」への信奉は、明治維新以降の日本の国力、民力をある一定方向に寄せるためには非常に有効にワークしたと思うのですが、最近では、どうも制度疲労が激しく、自分で情報を集めて自ら考えて目標設定をするという、基本的な自学態度を全く必要としない、「ただ教えてもらう」だけの受け身人間を増やすだけのように感じているのです。
東京大学ができたのは1877年ですが、当時は、別に東大に行かなくても、実業界で丁稚から経済人として世に出る方法もありましたし、軍人として陸軍士官学校や海軍兵学校、女子高等師範学校といった国立・公立の教育機関があり、また私学には同志社を始め、早稲田や慶應、上智や明治といった感じで、有為の人材に対して社会が多様な教育の場を提供しようと頑張っていました。
大学の学習においても、寮や独特の文化が育まれ、全人間的教育を施し、国立ならば国家有為の人材を輩出するために、その自治をできるだけ認め、教員や教授たちは自らの研究を前に進めて日本が、世界に伍していくために必死で自分で目標設定して、自ら学んでいったのです。
自分で情報を集める努力というのが「学ぶ」ということです。
何の目的意識もなく、ただ口を開けて、ただ効率よく教えてもらう、というのは、残念ながら学ぶことではなく、それはただ教えてもらうだけの残念な振る舞いです。
「はい、ここは入試に出るぞー」
といって解き方を「教えて」もらうだけの、実社会では、あまり(というかほぼ)役に立たないハウツーです。
自発的に、主体的に学ぶという「態度」は、入試のヤマを外した邪道ですから、非効率であるとして、忌避(きひ)されます。
こうした、自分の頭で考えないまま年を重ねていくと、非常に残念な人間になってしまいます。
最近の若い人たちや、最近まで若かった人たち、あるいは筆者のような立派な中年の人たちにおいても、ちょっと考えたらわかるようなレベルの低いことすらわかっていない、そのような基本的な教養のないように感じることが増えました。
彼ら彼女たちこそ、こうした「教えてもらうだけ教育」の犠牲者なのだと思います。
受験や進路のこと、それそのまま丸ごと自分の人生です。
自分で考えて、自分で決めて、自分で確かめて目標設定して、そうして進むべきものなのです。
しかしながら、特に中学受験、高校受験、大学受験というのは、人生における一大イベントであると「まちがって認識」されていて、失敗が許されないと思ってしまうから、自分で考えて、自分で確かめることをせずに、できるだけ、誰かのいう通りにした方がいいという安心感、バイアスがかかってしまいます。
誰かのいう通りにした方がその時は安心かもしれません。
しかし、その安易な判断の結果は、一生自分が背負うことになります。
人生の責任を持つのは、まず自分が第一です。
最近では、学校や塾の進路の先生も、子どもの人生を丸投げしてくる保護者の存在にとても苦しんでいるそうです。
うかつに、具体的にアドバイスをしようものなら、先生の指示通りにやったのにダメだった、責任とれ!とねじ込んでくるモンスター保護者が実際にいるそうなのです。
だったら、具体的なアドバイスなんて怖くてできません。
ですので、なんとなく、「確実に合格できそうな進路先を、うっすらと示して誘導する」くらいしかできなくなったというのです。
挑戦することの応援など、絶望的にできない、そんなぬるい雰囲気が蔓延しています。
子供から学ぶ力を奪う親たちは、自らも学ぶ力をつけることができなかった、かように筆者は考えております。
子どものころから、学ぶ力を奪われ、その子供が、いつしか学ぶ力の無い親になり、親子そろって、「どうすればいいんですか?」と受験産業に貢いで頼り、受験産業は、そんな親子の人生の責任を負えないから、確実に受かるケースしか示さない(そして、しっかりお金は取る)。
その一方で、「進学しないと、大変なことになる。」という常識を強化することには熱心で、人を無目的な受験に向かわせているという感じでしょうか。
これは、なんか誰も幸せにならない感じです。
高校も、大学も、専門学校も、大学院も、研究期機関も、なんでも高等教育というものは、 「学びたい」ことや分野が明確である、目標設定できる人にとっては、本当に素晴らしい場所です。
ですので、筆者はもちろん進学を否定しませんし、沖縄の不登校児の子供を出演させている自称カウンセラーの父親のような、学校を否定するコメントで煽ってPV(広告収入)を得ようとするような態度も取りません。
しかしながら、目的が「全く」ない、人間力の滋養のかけらも感じない、無目的な進学は否定します。
そんな生徒は、高校も大学も、願い下げであり、負担になるだけでメリットが何にもないからです。
自分の頭で考える、そのことを強化する「自学型」の学び場が、多くできればいいなと考えております。
こちらからは以上です。
(2020年1月6日 月曜日)
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