ペリリュー島の戦い

「アメリカの老軍人が日本軍の勇戦を讃えていたと伝えて欲しい」
ペリリュー島の戦いについて、振り返っておきたい。
南太平洋に浮かぶパラオは日本から真南に3200㎞、グアム島の西南、パプアニューギニアとフィリピンの中間に位置し、大小二百の島からなる島嶼国家。ペリリュー島はその一つで、南北9㎞、東西3㎞、面積13㎢の珊瑚礁の島である。
大東亜戦争では昭和十八年末から十九年秋にかけて、日本の絶対国防圏とされた地域が米軍に次々と政略された。特にサイパン、テニアン、グアムのマリアナ諸島を失ったことは大きな痛手で、米軍はここから日本本土の空襲が可能となった。 米軍が次の目標としたのが、フィリピン諸島の外廓たるパラオ諸島だった。本土防衛のためにはフィリピン死守が不可欠だが、そのためにはパラオ諸島を敵に渡してはならなかった。なかでも重要視されたのが最適の飛行場があるペリリュー島だった。
日本軍はここを死守すべく、歩兵第二連隊長中川州男大佐率いる一万余人を布陣。一方、米軍は四倍の四万二千人、小銃八倍、戦車十倍と圧倒的な戦力差で迫り「三日、たぶん二日」で陥落させると豪語していたという。
ところが、日本軍は昭和十九年九月から十一月まで、三日どころか七十余日間戦い抜き、米軍に死者千六百八十四人、戦傷者七千百六十人という甚大な被害を与え、そして玉砕した(日本軍の生還はわすか三十四人)。この勇戦敢闘が、敵軍を心底から畏怖させたことは次の通りである。
「ペリリュー島日本守備隊は祖国のために全員忠実に戦死せり」(米軍公刊戦史)
「敵は抵抗力の最後の1オンスまでしぼり出し、征服者(米軍)に最大の損害を強要した。ペリリュー戦はそれまでのいかなる戦いとも質を異にし、その後の硫黄島、沖縄戦の類型を示した」(米海兵隊戦記)
「ペリリューの複雑きわまる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった」(米太平洋艦隊司令長官C・W・ニミッツ)
さらに、元海兵隊員コードリン・ワグナー氏は平成六年にこう回想している(「大東亜戦争の秘話」展転社)。
「私は海兵隊の一員としてペリリュー戦に参加した。こんな島なら二日間で落すつもりだった。しかし一カ月たっても落ちなかった。
日本軍人はよく戦い全員が戦死した。当時戦った勇者に会いたくてもそれができない。皆さんは郷里に帰ったら、アメリカの老軍人が日本軍の勇戦を讃えていたと伝えて欲しい」
日本軍人はよく戦い全員が戦死しました。
こんな国民が再び立ち上がったら…!
列強は心の底から恐れているのです。
以上

