日田重太郎

どんな人物か

まずは日田重太郎がどんな人物だったのか、簡単にご紹介します。

日田重太郎は神戸や淡路島、徳島などに多くの土地を持つ資産家です。後に資金援助する事になる出光佐三の9つ年上だったと言われており、佐三が1885年に生まれた事を考えると、1876年頃に生まれたと考えられます。映画『海賊と呼ばれた男』では近藤正臣さんがご隠居さん的な感じで演じておられましたが、実際は兄貴分的な存在だったのかもしれませんね。

海賊と呼ばれた男

日田重太郎の言葉 「よっしゃ。話がまとまったから、庭にでも出ようか」日田はそう言うと、鐡造を誘って庭に出た。日田の家はそれほど大きな家ではなかったが、美しい庭が…

出光佐三との関係について

日田重太郎が出光佐三と出会ったのは神戸の町でした。当時の日田は、実家との仲が悪化した事から神戸に住んでいたとされ、職に就く事はなく茶道や骨董を楽しむ「高等遊民」みたいな存在だったと言われています。

一方、当時の佐三は神戸商業高等学校に通っていたものの、父親の家業である藍問屋の経営が危ない事から仕送りの額が少なくなっており、このため家庭教師をしてお金を稼ぐ必要に迫られていた状況でした。そして、佐三が家庭教師として教えたのが、日田重太郎の子供だったのです。

その後、独立を決意するも開業資金のあてがなく悩んでいた佐三に対して、日田は自らの資産のうち6千円の提供を申し出ます。当時の6千円は、現在で換算すると1億円近くにもなる大金。借りる事でさえも困難なこの金額を、日田は「貸す」のではなく「貰ってくれ」と言うのです。

ただし日田重太郎は、以下の3つの条件を佐三に守る事を資金提供の条件としました。

・従業員を身内だと考え、良好な関係で付く合っていく事
・自らの考えを最後まで曲げない事
・自分(日田)が資金を提供した事を他人に言わない事

佐三にも依存がある筈はありません。こうして日田重太郎の資金提供を受けた佐三ですが、最初の3年間は失敗の連続でした。貰った資金も全て無くなってしまい、会社を畳む事を決意した佐三は日田の元へ報告と謝罪しに行きます。

しかし日田は佐三を責めないどころか「神戸にある私の家を売ればお金には困らんだろう」と言うのだから驚きですよね。こうした事がキッカケとなり、日田は一族から佐三との縁を切るように迫られた事もあったそうです。

しかし、日田重太郎は佐三を信じていました。
「出光の為なら自分の全財産を失っても構わない」とまで言ってのけた佐三は感激し、海上にいる漁師たちに商品である油をセールスしに行き、これが大成功。その後も出光興産はビジネスの規模を拡大し続け、1956年には山口県にある徳山製油所の建設に成功します。

この時、佐三の年齢は70歳、日田に至っては80歳を越えていました。そして佐三は、徳山製油所の竣工式に日田を招待し、長年の恩に報いたのです。映画「海賊とよばれた男」では日田の(遺影?)写真が飾られていましたが、実際の日田は1950年代にはご存命だったようですね。