海賊と呼ばれた男
日田重太郎の言葉
「よっしゃ。話がまとまったから、庭にでも出ようか」
日田はそう言うと、鐡造を誘って庭に出た。日田の家はそれほど大きな家ではなかったが、美しい庭があった。
日田はにこにこしながら庭の池の鯉に餌をやった。もうお金のことは忘れているようだった。
「日田さん」と鐵造は声をかけた。「返済の件なのですが――」
日田は、うん?といった表情で振り返った。
「返済って何のことや。わしは国岡はんにお金を貸すとは言うてへんで。あげると言うたんや」
日田はそれだけ言うと、また池のほうに向いて、餌を与えた。
「六千円もの大金をいただくわけにはいきません。これは融資として考えています」
日田が振り向いた。その顔にはさっきまでの柔和な表情は消えていた。
「国岡はん、六千円は君の志にあげるんや。そやから返す必要はない。当然、利子なども無用。事業報告なんかも無用」
鐵造は声を失った。
「ただし、条件が三つある」
日田は指を三本立てて言った。
「家族で仲良く暮らすこと。そして自分の初志を貫くこと」
その後で、日田はにっこりと笑って付け加えた。
「ほんで、このことは誰にも言わんこと」
鐵造の全身は震えた。日田の溢れんばかりの厚意と、自分に対する揺るぎない信頼に心の底から感動した。目にみるみる涙が浮かんだ。
「日田さん――」
喉が詰まり、言葉が出なかった。しかし日田はそれに気づかぬように、振り返りもせずに、鼻歌を歌いながら庭を歩いた。
その夜、鐵造は日田の家で食事を御馳走になった。食事の席では、日田は金の話はさせなかった。
鐵造は久しぶりに長男の重一や次男の重助、妻の八重と楽しく会話し た。重一や重助はすっかり鐵造に懐いていたし、八重も鐵造の人柄にぞっこんだった。
鐵造が帰ってから、重太郎は八重に言った。
「京都の家を売ったお金を国岡にあげると約束した」
「はい」
「怒らないのか」
「怒る必要がありますか」 八重は食器を下げながら言った。「あなたがそれほどの人と見込んでのことでしょう」
この頁だけでも、読んで下さい。
◯家族で仲良く暮らすこと
◯自分の初志を貫くこと
◯このことは誰にも言わんこと
日章丸のお話は、またの機会に。
以上
追伸
「イランのアバダンに行ってもらいたい」
鐵造は前置きなしに言った。
「ああ、行きましょう」
新田はいとも気軽に答えた。
まるで大根でも買いにいくかのような言い方に、横にいた村田船舶部長は拍子抜けした。
「新田船長は、アバダンがどこにあるのか知っているのですか」と村田は訊ねた。
「イランでしょう」
「イランへは行ったことがあるのですか」
「ありません」新田は答えた。
「しかし海図さえあれば、どこへでも行きますよ。陸地でないかぎりね」