高橋紹運の忠義

岩屋城の戦い

高橋紹運と主家(大友氏)の絆について。高橋紹運は、筆者が次の大河に推挙する九州の大人物です。信条は「鳥獣以下にはならぬ」。高橋紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、衰えた時は裏切る。そのような輩は鳥獣以下である」という信念を持ち、主君・大友宗麟への忠義を最後まで変えませんでした。かの柳川藩主、立花道雪と連携し、主君・大友宗麟からの信頼が厚く、筑後高橋氏の名跡を継承して高橋鎮種と改称。名将・立花道雪(立花宗茂の養父)と共に、衰退していく大友家を支えました。
そして、岩屋城の戦い(1586年)が起こります。岩屋城は、かの太宰府天満宮の西北にある、筑後平野を見渡せる堅固な山城で再重要拠点です。北部九州を手に入れるには、岩屋城を落とさなければなりません。九州制覇を目指す島津勢は、4万の勢で岩屋城を攻めますが、決死の覚悟で立て籠もった高橋紹運以下763名の頑強な抵抗を受け、岩屋城を落とすのに手間取り、秀吉の九州征伐軍の到来を招きました。
高橋紹運は、島津忠長からの降伏勧告を拒否。主家のために岩屋城にて2週間の死闘の末、7月27日に自刃して果てました(享年39)。
島津軍を食い止め、豊臣秀吉の九州平定に貢献。紹運が率いる少数の兵が島津軍に予想以上の大打撃(島津軍約3000名喪失)を与えたため、島津は九州平定を断念せざるを得なくなり、その後の豊臣軍の上陸のきっかけを作りました。そして、その忠義の精神は、息子・立花宗茂へ受け継がれ、「忠義」は徳川二代将軍、秀忠公の胸を打ち、関ヶ原にて西軍に与しながら唯一大名への復活を成すことに結実しました(柳河藩主11万石)。
紹運の息子・立花宗茂も父の忠義を継承し、後に「西国無双」と称される名将となり、柳河藩主として、帰還。13万石を11万石に減封された上での帰還でしたが、領民一同、歓呼して宗茂を迎えたと伝わります。
高橋紹運の仁義と壮絶な最期は、敵であった島津の将兵たちさえも称賛・合掌させるほど、高く評価されています。
紹運は敢えて島津勢が最初に攻撃するであろう岩屋城に入城した。主将である紹運がこのような行動を取ったのは、島津勢に迂回されて立花城を衝かれるわけにはいかないからである。立花城には紹運の実子、立花宗茂がいた。また宝満城には、紹運の妻や次男の高橋統増、岩屋城から避難した非戦闘員(女・子供)もいた。豊臣軍が来援するまで紹運は自らを囮として徹底抗戦する。篭城軍は全員玉砕するが島津軍にも甚大な被害が出たため軍備を整えるため一時撤退する。結果、主家大友家・長男宗茂は豊臣軍来援まで持ちこたえる事に成功した(次男、統増は島津軍の策略により捕虜になるが後に釈放される)。
長男で立花氏の養子になった立花宗茂は、父高橋紹運が篭城する岩屋城に援軍を派遣したいと家臣に告げた。他家からの養子のため賛同者が出ないのではと考えたが、吉田右京(吉田連正)を始めとする多数が援軍に赴きたいと願い出た。吉田右京は「武士の道は義に順ずることだと思う」と率先して岩屋城に援軍に向かった。援軍に向かった吉田右京ら二十余人は、紹運と共に玉砕したと伝わっている。彼らの遺族は後に宗茂によって厚遇されている。
島津軍諸将は、紹運の武将としての器量を惜しみ降伏勧告を何度も送ったが、紹運は「主家が盛んなる時は忠誠を誓い、主家が衰えたときは裏切る。そのような輩が多いが、私は大恩を忘れ鞍替えすることは出来ぬ。恩を忘れることは鳥獣以下である」と敵味方が見守る中で言い切った。このとき、敵味方関係なく賞賛の声が上がったと言われている。ちなみに降伏勧告は計5回、島津方から3回、味方である立花宗茂と黒田孝高から、岩屋城が防衛に向かないために城を捨てて撤退せよという趣旨で1回ずつ受けているが、いずれも使者を丁重にもてなし勧告を断っている。
落城後、攻め手の総大将だった島津忠長と諸将は、般若台にて高橋紹運の首実検に及ぶとき、「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運と友であったならば最良の友となれたろうに」と床几を離れ、地に正座し涙を流したと伝わっている。
しかるに、令和の今。今の総選挙を終わってからの負けた野党の連中の情けないこと。
主家が盛んなるときは忠誠を誓い、衰えた時は裏切る。有権者の恩を忘れるかような輩は鳥獣以下である。
勝った勝ったと喜ぶだけの与党のみなさんにも、聞かせてやりたい言葉です。
以上