ペリリューの中川州男大佐

【パラオとペリリュー島の戦いのお話】
中川中将は、熊本の玉高の出身で、陸軍士官学校の第30期生です。
日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんだったそうです。

中川大佐がパラオ、ペリュリュー島に赴任したのは、昭和18(1943)年6月のことでした。
家を出る時、奥さんから「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って
「永劫演習さ」とだけ答えられたそうです。
「永劫演習」というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。

温厚で、日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体でわかるものです。
そしてそういう中川隊長なら、パラオの島民たちが、自分たちの頼み・・・一緒に戦うこと・・・をきっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
だって、ただでさえ、日本の兵隊さんたちは兵力が足りないのだから。
ペリュリューの村人たちは、そう思い、中川中将のもとを尋ねたのです。

そして中川中将に、「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたんです。これは村人たち全員の総意です。」

中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられたそうです。
一同の話が終わり、場に、沈黙が訪れました。

しばしの沈黙のあとです。
中川隊長は、突然、驚くような大声をあげました。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。

村の代表たちは、瞬間、何を言われたかわからなかったそうです。
耳を疑った。
(俺たちのことを「土人」と言った?)

そのときは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らは泣いたそうです。
断られたからではありません。
土人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみの方が大きかった。

日頃から、日本人は、自分たちのことを、仲間だと言ってくれていたのに、同じ人間だ、同じ人だ、俺たちは対等だと言ってくれていたのに。
それが「土人?」
信じていたのに。
それはみせかけだったの?

集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。
みんな泣いてしまいました。

何日がが経ちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みます。
島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間と思っていた日本人に裏切られたという思いが、ただただ悲しかったのです。

汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。

次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から、浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。

そのとき、船上にあった島民たちには、はっきりとわかりました。
日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。
そのために、心を鬼にして、あえて「土人」という言葉を使ったのだと。

船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でもわからない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。

船の上から、ひとりひとりの日に焼けた日本人の兵隊さんたちの姿が見えました。
誰もが笑っています。
歌声が聞こえます。

そこには中川隊長の姿もありました。
他のみんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていたそうです。
素敵な笑顔だったそうです。
当時の人は、その笑顔が、ずっとまぶたに焼き付いていたといいます。

パラオとペリリュー島の戦いのお話 - ぜんこうのひとりごと

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