日本の近代史で輝く杉原千畝(すぎはらちうね)という凄い人を紹介します
おはようございます。
2015年10月の歴史に関する配信記事です。
大事な話をしますので、よろしくお付き合いください。
1900(明治33)年1月1日生まれの杉原千畝は、日本の外交官で1940年7月中旬、リトアニアにおいて6,000人あまりのドイツ占領下のポーランドからリトアニアのカナウスに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などに対し、本省の訓命に反して第三国への通過ビザ(査証)を書き続けました。
外務省より領事館退去命令が下され8月末に領事館閉鎖しその後カナウスを発つその瞬間まで、ソ連政府や本国からの再三再四の退去命令を受けながら一か月余り寝る間も惜しみ書き続けたビザは実に2,139家族分に上りました。
ついに本省からのベルリンへの異動命令を無視できなくなるに至り、領事館内すべての重要書類を焼却、ホテル内でも仮通行書を発行し続けました。
そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けたのです。
戦後、外務省の命令を無視した本行動により杉原は外務省を退職、その後は職を転々とし1986年(昭和61年)7月31日、86歳で世を去ります。
その後、杉原に命を救われた世界中の人たちによる名誉回復運動により、日本の官僚組織では異例の公式な謝罪と名誉回復の宣言がなされたのは死後13年経過し、生誕100年を迎えた2000年、日付は日本とリトアニアとの国交回復の日である10月10日のことになります。
やったことが間違っていなかったということを認めるのにはこれだけの時間がかかるのです。
この際、日本国外務大臣より、
「これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげる」
旨と、
「外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことである」
こと、そして、
「杉原氏が極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断と行動をされたことをたたえ、素晴らしい先輩を持つことができたことを外務省として誇りにする」
と結ばれました。
時間はかかりましたがきちんと反省と感謝の意を示した日本国政府にも敬意を表したいと思います。
宮仕えの筆者からは以上です。
(平成27年10月10日 土曜日)



