知っておいたほうが良かったこと
もっと早く知っていたらよかったのに、と思うことは何ですか?
母が事故で他界した後、私と姉は父の手で育てられました。私は6歳で姉は8歳でした。父は寡黙な人で、話し掛けない限り滅多に口を開きませんでした。女性と付き合う事もなく、仕事に行って帰ってきて、私たちの面倒を見る、それだけが彼の日常生活でした。父は私たちと接する時、いつも微笑んでいて、その愛情は十分に伝わってきました。しかし、父に話をさせるのは、私たちにとってさえ、恐ろしく難しく、できれば避けたいと思うほどでした。
高校時代、私はアメフト部に所属し守備の要のラインバッカーをしていましたが、父は必ず試合の応援に駆けつけてくれました。姉は学校でフルートを吹いていましたが、父は彼女のコンサートも欠かさず聴きに行きました。しかし、他の全ての子供たちの両親が社交性に富んでいるのに対して、私の父は178センチ64キロという平均的体格の物静かな人でしたから、他の連中が父親と笑い合ったり、仲間意識を持ったりしているのを本当に羨ましく思ったものでした。ウチの父は、ただ微笑んでいるだけで、とても無口だったのです。
週末に、父は釣りに出かけましたが、私たちが行きたがれば一緒に連れて行ってくれました。私たちはいつでも歓迎されました。父が私たちを愛してくれていることは、一切何も言わなくても分かりました。父と話そうとすると、1-2語の答えばかりが、山のように返ってきました。そして「嬉しいよ、お前とこういう話ができて」と締めくくるのでした。
大学卒業後、私は実家から4時間ほど離れたナッシュビルに移り住みました。それから数年後、父は70代になり、病気になって亡くなりました。葬儀には参列者はほとんどおらず、父の職場の人たち、姉と私の他、数名の家族のものだけだったのですが、そこに一人の米国陸軍大将が軍服姿で現れ、父に敬礼した後、後方に座って祈りを捧げ、立ち去りました。
教会のドアの所で私は自己紹介をし「父のお知合いですか?」と尋ねました。すると彼は、「自分は大尉としてフランス戦線に居たが、君のお父さんは我が部隊の特務軍曹だった。彼は2つの砲台を破壊し、ドイツ軍の進撃を食い止め、米国議会から軍人の最高栄誉である名誉勲章を授与されたんだ。その日、私は8人の隊員を失ったが、25人が生き残ることができた。全ては君のお父さんが私が知る限り最優秀の特務工兵であったお陰なんだよ」。
言うまでもなくショックでした。自宅のクローゼットの奥に埋もれていた靴箱の底から、名誉勲章と、式典用に渡される副章、表彰用リボン、1945年にトルーマンが署名した表彰状、銀星章、フランスから贈られた掌紋入りの十字勲章が出てきました。
神様、私は父さんからこの話を聞きたかったのです。私がどんなに父親を誇りに思っているか、父さんは知っているのだろうか?