余計なお世話だ

SNSが嫌いな理由

筆者がSNSが嫌いな理由は、まさにこの写真のような余計なお世話にあります。パターナリズムといって、心身の成長が今だ未熟な若者に対して、過剰な暴力的性的刺激を与えないようにして、健全な風俗維持を図ろうというような意図がされることがあります。しかしながら、その、「未熟」といった定義は時代や言う人、大きくは地方公共団体とか、国家とか、人民を規制したい何とか人民共和国のような表現規制を激しくしないと自らの権力基盤の維持すら怪しいあやしげな政体によっても、変わります。宗教とか民族とかについてもそうです。イスラム教徒の目の前で豚汁食べちゃうようなもんです(昨晩の飯が豚汁だったんで)。タブーというやつです。

その、勝手に決めて遠慮なしに「提案」してくるこのSNSの中の人たちこそ、余計なお世話だと筆者のような自由主義者は思うわけです。提案じゃないよね強要だよね。一応、大学の法学部での「憲法」の成績は優の端っこであった身からも申し上げますと、表現の自由(日本国憲法第21条1項)は、民主政治の情報基盤としても、各個人の人格形成上も、欠かすことのできない基本的人権の中でも、きわめて国家権力等によって侵害されやすい精神的自由権として、最大限の尊重されなければならず、これを制約するためには、他の人権、なかんずく他者の表現の自由といった価値的同価値といえるほどの高度な公共性を要するというのが、私の考えであります(判例も、建前上同じようなことを言ってます)。

それゆえに、SNSというのは、社会の公器として公共の知る権利にも配慮した運営がなされないといけないわけですが、どうも、そのようなお題目は横に追いやられた広告のオンパレードに堕しているように見えてなりません。バズれば勝ち。嘘松でもOK。ということで、かようなMAGAとかいう、ITプラットフォーマーによるSNS運営なんぞに過大な期待をかけるのが、無粋ってもんだとわりと早い段階で筆者は達観しました。

そこで、自分でサーバーを立てて(レンタルサーバーですが)、ドメインもbirumenking.comとか勝手なやつを用意して、そこで個人の好きなことを言う(=表現する)ということを始めたのが2013年。2025年の今まで続けてきたので、干支が回る12年やってきたことになります。SNS弁慶として長文の、渾身のブログ記事を書いたとしても、運営側からアカウントごとBANされたり、表現が悪いと言って勝手に削除されたり、自分以外に事実上全く見れなくするなど、彼らにとってはお茶の子さいさい(お茶うけの菓子をつまむくらいに簡単という慣用句)です。このまま、世界世論を多様性万歳に「誘導」することもできますよね。すばらしいグローバリズムだこと。ちなみに、私の最近の嫌いな言葉第一位はこの「グローバル」とかいう造語です。多様性という一神教に染め上げようとしているこの変な力は何なんですか。地球市民?そんなのおるかよ。俺は日本人だ。

もとの、「インターナショナル」な国際化に戻した方が、よっぽどましです。

自殺するのが悪いことなのか、そういうことは、お前らのような、図体だけはでかい拝金のSNS運営広告業者に言われる筋合いではなくてね。親とか師匠とか、かけがえのない家族とか仕事仲間とか、指導者とかそういう人から説かれて、自分で腹に落として感じ取るもんなんでね。人間が人間らしくあやつる高尚な思想というもんだ。お前ら所詮金目だろ?

俺たち地域性民族性あふれる人間たちは、お前らにデータとカネを吸い取られる家畜じゃねえぞ。

そう思わない「従順じゃない」奴もまれにいるということさ。

お前らのサービスなど使わない。けどな、お前ら金もうけだけはうまい組織の「株」だけは漁ってやるぜ。こっそりとなー。逆にお前らこそ飼われる身だぜ。

(追伸)

最近リアルなガチ読者と対面で話す機会も多いのですが(コロナとか何だったんでしょうね)、あまり過激なことを書かないでくださいねと念押しされています。それなのに、言われて一発目に書いてしまうのがこんな内容で、本当に、申し訳ございませんw。

以上