だったら監督も走ってくれ(中田英寿の言葉)

日産スタジアム

おはようございます。

2015年11月の筆者提供のパイオニア(先駆者、先覚者)に関するブログ配信記事です。

今日のパイオニアの話、サッカー編で行きます。

日本プロ野球からの世紀の輸出品である野茂英雄投手の北米メジャーリーグ挑戦は1995年でしたが、これに遅れること3年、日本のサッカー界において、漫画「キャプテン翼」の如く最も才能と努力と物怖じしない世界志向を持った天才ミッドフィルダーが現れました。

中田英寿選手です。

通称、ヒデ(Hide)。

1998年、日本が初めて出場したサッカーワールドカップの本戦、グループリーグ3試合全てに出場、派手な金髪でスカウトに視認されるようにも努めた献身的かつ嗅覚鋭いプレーで、若き21歳の中田選手は、日本のベルマーレ平塚から、当時世界最高リーグの噂高かったイタリアのセリエA(アーと読む)に前年セリエBから昇格した中堅クラブのペルージャに日本人選手として初めて移籍しました。

そして迎えたシーズン開幕戦、昇格組のペルージャの相手は、何と当時リーグ2連覇中の王者ユベントス。

試合は前半だけで0-3とペルージャを圧倒しました。

しかし、ここから中田選手の伝説が始まります。

後半6分に右サイドから切り込みゴールキーパーの左側(ニアサイドという)に切り込むシュートで1点、さらにゴール前にこぼれた浮き球をボレーで地面に叩き込み決めた2点目と、背番号7番は躍動したのです。

ゲームは3-4で敗れましたが、「中田」「NAKATA」の名はこの日ヨーロッパ中に轟いたのです。

筆者も、この試合のことを報じたスポーツ新聞をリアルに見ました。

とんでもない才能が現れたと目を見張ったものです。

何しろ当時のユベントスのメンバーといえば、ジダン、デルピエロ、インザーギ、ダービッツ、デシャンなど、その後まさしく銀河系軍団を形成したレアルマドリードを髣髴とさせるメンバー、すなわち完全に世界最強だったのです。

その相手に2発ゴールをお見舞いする衝撃デビューを飾ったのです。

翌日、その内容を伝えるスポーツ新聞を見ながら、漫画の世界が現実になったと感動した若き日の、こちらは世界デビューは未だの筆者からは以上です。

追伸

中田英寿という人を知るための何よりのエピソードを紹介します。

当時、中田英寿は中学2年生。

当時、甲府北中のコーチをしていた皆川新一は、試合に負けた生徒たちに罰走として50本のダッシュを命じた。

筆者も中学高校時代を振り返れば、何か失敗があったり試合に負けたりしたときに「ダッシュ50本」などというのはよく経験したものである。

そして、無論我々の世代には、指導者のそのような命令に反論するなどありえないことだった。

子供たちは不承不承ながら当然のことのように「罰」を受けたのですが、ヒデだけはベンチの脇に立って走ろうとしないのです。

怪訝に思った私は、「どうした。なぜ走らんのだ!」と語気を荒げたのです。

ヒデの答えはこうでした。

「走る理由がわからない。俺たちだけが、走らなければならないのは納得できない。皆川さんも一緒に走ってくれ。だったら俺も走る」

引用元:『山梨のサッカー』山日ライブラリー

そして、皆川さんは、ヒデらと一緒に(自分の命じたことですが)走り、そしてヒデは世界に羽ばたいたというわけです。

(平成27年11月15日 日曜日)

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