教育

乃木希典大将

乃木希典(のぎまれすけ)大将は、旅順攻略ののち、現役を退いて学習院の院長となります。ここで、将来の天皇陛下の教育をされます。

9月13日は、乃木希典将軍のご命日です。
辞世の句とともに、お人柄を偲びたいと思います。

うつし世を神さりましゝ大君の
  みあとしたひて我はゆくなり

明治39(1906)年5月から、迪宮(みちのみや)さまは、青山御所内に設けられた幼稚園に通われました。
そして翌明治40(1907)年4月に、学習院初等科に入学されました。

この頃の学習院院長が乃木希典陸軍大将です。

乃木院長は、皇族に対して、特に厳格な6つの教育方針を立て、全職員にその実行を固く命じました。以下に掲げます。

◆六つの教育方針◆

一、健康を第一と心得べきこと
一、御宜しからざる御行状と拝し奉るときは、これを矯正申し上げるに御遠慮あるまじきこと
一、御成績については御斟酌然るべからざること
一、御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべきこと
一、なるべく御質素にお育て申上ぐべきこと
一、将来陸海軍の軍務につかせらるべきにつき、その御指導に注意すること

裕仁親王殿下(ひろひとしんのうでんか、その後今上天皇、のちの昭和天皇)は、東宮御殿から学習院まで、雨の日も風の日も徒歩でお通いになられました。
乃木院長は、毎朝、欠かさず正面玄関で殿下をお迎えなされたそうです。乃木希典院長は、学習院の寄宿舎で自身も寝食したのです。
殿下は、院長の数歩前で停まり、欠かさずに礼儀正しく挙手の礼をされています。

殿下は乃木院長の質素の教育をよく守られました。
つぎ当ての服を誇らしげに着て通学されました。
鉛筆は握れなくなるほど、消しゴムは豆粒ほどになるまで、お使いになられたそうです。

昭和天皇は、晩年まで、乃木希典院長に指導を受けたことを心から誇りに思っておられました。師匠と仰いで尊敬されたわけであります。

裕仁親王殿下は、乃木希典を「院長閣下」と呼んで、尊敬されました。
ある人が「乃木大将」と乃木を呼び捨てたとき、殿下(当時)は、
「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したといいます。

大正元年(1912年)、明治天皇御大葬の前々日、乃木院長閣下は、願い出て参内しました。
乃木院長閣下は大切なところに朱点した山鹿素行の「中朝事実」を、裕仁親王殿下に御講義なさいました。

乃木のただならぬ気迫と様子に、裕仁親王殿下は、
「院長閣下は、どこか遠いところへでも行かれるのですか?」とお尋ねになったそうです。
このときの講義は、乃木閣下の、裕仁親王殿下に伝える渾身の講義でした。
それを聞いた瞬間、乃木閣下は、顔を滂沱の涙で濡らしたそうです。
そして翌日、乃木閣下は奥様とともに殉死なさいました。

山鹿素行といえば、大石内蔵助の討入の際の、山鹿流陣太鼓ばかりが有名ですが、実は、赤穂藩とも関連が深く、また、幕末の吉田松陰は、山鹿流兵学師範です。
つまり、山鹿流は、幕末の志士達の基本理念となった思想です。

乃木閣下の講義で使われた山鹿素行の「中朝事実」。大約すると、
「Chinaでは王朝が何度も替わり、
 家臣が君主を弑することが何回も行われている。
 Chinaは君臣の義が守られていない。
 これに対し日本は、
 外国に支配されたことがなく、
 万世一系の天皇が支配して
 君臣の義が守られている。
 Chinaは中華ではなく、
 日本こそが中朝である」
というものです。

だいぶ彼方の国からクレームが来そうな一文ですね。はるか昔、日出るところの天子が挨拶を寄越す、つつがないか?と堂々と述べた、かの摂政聖徳太子(600年頃)を彷彿とさせます。

自らを漢民族と称している大陸の皆さんは、漢の高祖劉邦の子孫を今も戴いておられるのでしょうか。直近では満州国、清の最後の皇帝、宣統帝溥儀を庶民、ならず奴隷の地位身分まで堕とす不敬の至り、どういう神経構造をされておられるのでしょうか。軽く4,000年以上も王朝の攻防繰り返し、要はその時その時一番強い権力握った奴が好き放題する覇道、強けりゃ何でも許される、反対する奴らは殺せばいい、そんな土壌なんでしょうね。

ともあれ、万世一系の天皇をいただく伝統ある日本というものは、ほんとうにありがたく、幸福なのだと思います。

教育とはかくあるべき、というお話でした。

以上