卑弥呼の墓

【権現塚は築造当初は低い円形周溝墓であったか】(一部再掲)

-

 西暦 247年に卑彌呼の要請で武官(塞曹掾史)の張政が黃幢(こうどう 魏の錦の御旗)をもって邪馬臺國に来たとき、卑彌呼はすでに死んでいました。

 「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」(魏志倭人傳)

大いに墓を作ったが、それは径(さしわたし)が百餘歩であったと書かれています。

 この記述を見て気が付くことが二つあります。

 一つは、高さが書かれていないことです。平坦な「円形周溝墓」であった可能性があります。もう一つは、張政が邪馬臺國に行ったとき、墓はすでにできていたか、ほとんどできていたことです。このことも、卑彌呼の墓は平坦な「円形周溝墓」であったことを示唆します。

「円形周溝墓」とは、周囲の土を掘って周溝を造り、その土を中央の円形部分に盛るだけの墓です。死者に土地を与えるという思想です。それゆえに、「円形周溝墓」は高さが低く、かつ短期間で造られます。大陸や朝鮮半島にはない、わが国固有の墳墓です。

 権現塚(福岡県みやま市瀬高町坂田)は、福岡縣山門郡瀬高町生まれの元西鉄職員で郷土史家の村山健治(1915-1988)説によれば、卑彌呼の墓です。

 権現塚は「女王山」(標高 159メートル)の麓(ふもと)から西に歩いて 15分くらいのところにあります。直径約 45メートル、高さ約 5.7メートルです。周りを幅約 11メートル、深さ約 1.2メートルの溝(の跡)が囲みます。

 中国で「里」とは、どの時代においても「三百歩」でした。衛星写真で東松浦半島の唐津湾北西岸から糸島市までの距離を「五百里」(魏志倭人傳)とすると、この権現塚の直径は文字通りの「百餘歩」です。実際にふもとを歩いて測ってみても百歩余りでした。

 権現塚は、南に接して、祭儀が行われた広い敷地の址があります。現在は農地となっています。その敷地から、朱を塗った籩豆(へんとう 高坏)など、祭儀に用いられたと見られる四、五十センチメートルの大型の土器が出土しています。

 日本最初の前方後円墳は「纏向石塚古墳」で、ケンブリッジ大学の IntCal20に照らしてその築造は 280-310年と見られていますが、纏向石塚古墳は後円部が移行期の墳丘墓とも見られています。祭儀が行われた広い敷地の址を前方部と見ると、権現塚は前方後円墳の原型に近い可能性があります。

 権現塚は、地域では、太陽神を祀る聖地として伝承される日向神(ひゅうがみ)峡谷と、女王山の「聖域」(女王の祈祷所)と、正確に東西に一直線に並んでいると見られています。したがって、春分の日と秋分の日に、女王山の「聖域」を通って太陽が昇るのが見える地点に築造されているようです。やはり「太陽神の巫女(みこ)」を祀(まつ)るのにふさわしい(前記村山健治説)と見られます。

 この権現塚のすぐ北からは、甕棺などが数多く出土していますが、殉葬者の棺ではありません。日本に殉葬の風習はなく、それは皆無です。『魏志倭人傳』に「狥葬者奴碑百餘人」と書かれていますが、将軍・司馬昭の背後に臨在する倭國で、強大な権力をもつ女王に狥葬者がいないとなると「話し」にならなかったというだけと見られます。

 昭和五十六年(1981年)に福岡県みやま市教育委員会は、この権現塚を古墳時代中期(五世紀)の「権現塚古墳」と命名し、市の「史跡」に指定しました。「古墳時代中期(五世紀)の古墳」とは、国内で古墳が最も多く築造された典型的な古墳のことです。史跡として「指定」するには、ただの小山ではないという「何ら」かの理由が必要だったようです。それでも、「史跡」に指定されたおかげで、現在も権現塚は農地などに転用されることなく保存されています。しかし、この権現塚は一見して後世(古墳時代)の古墳ではありません。直径が 45メートルもあるのに、高さ 5.7メートルは「円墳」として低すぎです。また、二段円墳と比較しても、一見して形が異なっています。権現塚は、円形周溝墓を基盤にもつ弥生時代の、日本最大の墳丘墓です。

 権現塚の現在の姿から想像することは難しいかもしれませんが、権現塚は出来た当初は高さが 1.5メートル程度の「円形周溝墓」であった可能性があります。先ず周溝を掘って内側に土を盛ったと見られる、高さ約 1.5メートルの「円形周溝墓」の址が残っています。測量図で濃い緑色で表した底部が円形周溝墓と見られます。魏使の張政が見たのは、この円形周溝墓であった可能性があります。その後、その上に墳丘が「乗せられた」ようです。そのような形をしています。その結果、「弥生時代」の日本最大の「墳丘墓」となったと見られます。

 これらのことから、この権現塚は村山健治説の通り、『魏志倭人傳』の卑彌呼の墓である可能性が高いです。