二代目が偉いという話



徳川秀忠公
【お城話し】
「大阪城『大御所・徳川秀忠の隠居城』計画」
以前より
「徳川大阪城は石の要塞」
と、書かせていただいております。
元々、
築城において
「石垣」を利用するのは
西国、近江(現:滋賀県)以西が比較的盛んで、
東国(関東地方)では
「土」を使った築城技術が
発展しました。
ちょっとここで
お断りしておきます。
「石垣作りの城」
が
「土作りの城」
より
「技術的に上」
だった、とか
「石垣作りの城の方が優れている」
ってのは
「大きな勘違い」で…
関東地方の「土作りの城」の
完成度は
西国の石垣を伴う城郭より
優れています。
江戸城の巨大な「土塁」も
圧倒されます。
なので
「石垣の城」
「土の城」
技術の「優劣」でなく、
「城の文化の違い」
という視点から見るべき、
と、私は考えます。
で、徳川大阪城です。
徳川大阪城には
二ノ丸に
「城番長屋」という
数千人の幕府直属の武士(御目見え以下の御家人・足軽)が常駐する居住スペースがあり、
西国の外様大名たちへ
「にらみを効かせる」
重要軍事拠点でした。
だから
大手門の…
「横矢がかり」と「枡形(ますがた)」といった
芸術的とも言える
「完璧な防御」が
施されていました。
大阪城が
「堅牢」だった理由の
もう一つ。
それは…
二代目徳川将軍で、
三代目を徳川家光に譲っていた
大御所・徳川秀忠の
「隠居城」にする計画が
あったから…
とも
言われています。
初代・徳川家康は
自身が子どもの頃に暮らした(人質として)駿府に
隠居城・駿府城を築城しました。
徳川秀忠も
天正十八(1583)年の
豊臣秀吉の「小田原征伐」の際、「人質」として豊臣秀吉の居城・大坂城へ送られ、
大坂で暮らしています。
豊臣秀吉から気に入られ、
徳川秀忠の「秀」は
豊臣秀吉から「偏諱(へんき)」により、名づけられた名前です。
数年前、大河ドラマ
『真田丸』で、
真田昌幸(演:草刈正雄)の
長男・真田信幸(演:大泉洋)が…
「父親と同じ名前は気に入らない」
と、徳川家からケチをつけられ…
「幸(ゆき)」と同じ読み方の違う漢字、「之(ゆき)」に変えた…
ってエピソードがありましたが…
名前って
今も昔も大切なモノでした。
本来、
豊臣家と対立し、最終的に勝者になった徳川将軍が、
「秀吉からの偏諱」を
そのまま使っている…
ってのは
ちょっと不思議で。
この場合、
「豊臣家(豊臣秀吉)との縁は切る」
意味でも
「徳川家忠」もしくは
「徳川康忠」とか
先代であり父親の
徳川家康からの「偏諱」を
改めて与えられ
改名しても
なんら不思議では無かった。
と、言うより
改名するのが「自然」やったと思うんです。
しかし
徳川秀忠は
一生、「秀の字」を背負った。
何故でしょうか?
コレは「推測」でしか
ないのですが…
秀忠は秀忠なりに
豊臣秀吉をリスペクトしていた。
だから
「豊臣家の通字」である
「秀の字」を変えなかった。
また
自分がリスペクトした秀吉が築城し、
子ども時代を過ごした
大坂城を
「時代は豊臣から徳川に変わった事のアピール」の為、
豊臣大坂城は地中深くに「埋め立て」ましたが…
自らの「隠居城」としようとした。
てな「推測」は
成り立たないか?と
思うワケです。
結局、秀忠は
江戸城内の「西の丸」に
自分の隠居用御殿を建て、
大阪城に「入城」する事は
ありませんでした。
理由は…
「財政的負担」が主な理由だった、と唱える研究者もいますが…
私は
大御所が遠方に移住するのは
「二重政権」の火種となる危険性に気づいた、と
推測します。
「江戸城」の将軍
「大阪城」の大御所、
離れていては
本来、征夷大将軍の下で
一元化されなければならない
「幕府」の指示系統が
大御所系統
将軍系統
の「二重権力体制」を産む。
実際
徳川秀忠は
自分が現職の将軍だったのに
実際に実権を握っていた
駿府の大御所・徳川家康と
「二重政権」を経験しています。
「将軍権力の確立」の為にも
大御所・秀忠は
江戸城を離れるワケにはいかなかったのではないでしょうか?
秀忠が「先例」となり
後の歴代大御所は
「西の丸」を隠居所とします。
そう考えれば
ドラマでは
「ちょっと頼りない二代目ボンボン」なキャクターで描かれがちな徳川秀忠は…
実は
思慮深い、政治的配慮も
的確に出来た
優れた人物だった、
と
思えてきます。
※画像
◎徳川秀忠肖像画
◎徳川大阪城復元イラスト
◎NHKビルから見下ろす大阪城天守と大手門
◎大手門の「横矢がかり」と「枡形」の防御模式図
◎大阪城の石垣アレコレ

